嘉平元年(249年)11月、令狐愚は、再び張式を派遣して曹彪と連絡を取らせたが、張式が未だ帰らないうちに令狐愚が病死した。
嘉平2年(250年)、火星が南斗六星に接近した際、王淩は、「南斗の中に星がある。突然、富貴となる人が現れるであろう」と述べた[4][5]。
嘉平3年(251年)春、呉軍が涂水に駐屯したため、王淩は朝廷に上奏して呉軍を攻撃することの許可を求め、反乱を隠蔽しようと企てた。司馬懿は、王淩の意図を察知して、回答しなかった。王淩は、武将の楊弘を派遣して、兗州刺史の黄華に廃立の計画を通知しようとしたが、楊弘と黄華はこの計画を司馬懿に対して暴露した。令狐愚が病を得た際、治中従事の楊康は呼びかけに応じて洛陽に出向いたが、楊康もまたこの計画を暴露したのであった。4月、王淩による謀反の計画は、皇帝曹芳の知るところとなった[6]。
司馬懿は、直ちに軍を率いて水路を進み、王淩を攻撃した。司馬懿は、まず王淩を赦免する旨の命令を発し、王淩に使者を派遣して投降を呼びかけるとともに、自らは王淩の本営から百尺の距離に進軍して、王淩を圧迫した。王淩は、自らの浅慮を悟り、抵抗することを放棄して、掾の王彧を派遣して謝罪し、印綬と節鉞を届けさせた[7]。
司馬懿の次男の安東将軍司馬昭は、命を奉じて淮北諸軍事を督し、軍を率いて項城にて司馬懿とまみえた。司馬懿が丘頭を過ぎ百尺堰に至った時、王淩は、自らの身体を縄で縛って、罪を悔いる旨を示した。司馬懿は詔書を奉じて主簿(中国語版)を派遣し、王淩の縄を解いて慰労し、印綬と節鉞を返還した。王淩は、自らが許されたものとみなして、小舟に乗って司馬懿にまみえようとしたが、司馬懿の使者によって阻止されて十余丈の外に留め置かれた。王淩が「貴殿は短い手紙で私を呼び出したが、私はどうして来ないことがあろうか(必ず来る)。何のために軍を引き連れてきたのか」と怒鳴ると、司馬懿は「なぜなら、貴殿は短い手紙で呼び出されるような人ではないからだ」と述べた。王淩が「貴殿は私に背いた」と述べると、司馬懿は「私が貴殿に背くことがあったとしても、国家に背くことはない」と述べた[8]。ここにおいて、王淩は自らが重罪を犯したことを悟り、司馬懿に対して棺を作成するための釘を求めたところ、司馬懿はこれを王淩に授けた[9]。司馬懿は600人を派遣して王淩を洛陽に押送したが、5月、項城を過ぎたあたりで、王淩は、服毒自殺した[10][11][12]。
司馬懿が寿春に至ると、張式らは次々と自首した。単固(中国語版)は、令狐愚の別駕(中国語版)であり、この計画を知っていたが、病により辞職していた。この時、単固は司馬懿とまみえ、司馬懿が単固に対して計画を知っていたかどうか尋ねたところ、単固は知らなかったと述べた。また、令狐愚に謀反の動きがあったかどうかを司馬懿が尋ねたところ、単固は否定した。その後、楊康によって事件への関与の証拠が提出されたことにより、単固は部下とともに廷尉の獄に繋がれたが、最後まで罪を認めなかったため、司馬懿が楊康を派遣して尋問したところ、単固は言葉に詰まったが楊康を大いに罵った。楊康は、自首したことによって封爵されて官位を拝したが、却って言葉が脱落したため単固らとともに斬刑に処された。朝廷は、曹彪に対して死を賜り、その部下で謀議に加わった者は全て誅殺された。王淩と令狐愚の遺体が墓から掘り返されて3日間にわたって野ざらしにされ、印綬や朝服は全て燃やされて埋められた。