諸葛誕の乱
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魏末、征東大将軍の諸葛誕は親友であった鄧颺、夏侯玄らが次々と誅殺されるのを目にし、また以前に寿春で挙兵した王淩や毌丘倹も三族皆殺しにされていたことから、司馬昭が権力をほしいままにしていることに不満を抱いていた。そこで彼は、官府の倉庫の財物をできる限り提供して広く救済や施しを行い、更に罪人を赦免して人心の籠絡を図った。また、揚州の俠客たち数千人を養い、護衛兼自らの死兵として備えた[1]。
甘露元年(256年)の冬、呉が徐堨を攻める機会をうかがっていたため、諸葛誕は自軍の兵力で十分に防御できることを分かっていながらも、朝廷に対して十万の兵を率いて寿春を守りたいと請願した。さらに、淮水のほとりに城を築いて呉軍の侵攻に備えることを求めた。
当時、司馬昭は朝政を掌握したばかりであり、長史の賈充は、征東・征南・征西・征北の四将軍を慰労しつつ、それぞれの志向や動向を探るよう進言した。司馬昭はこれを容れて賈充を淮南に派遣し、賈充は諸葛誕と会って時事について語り合った。その中で賈充は「洛陽の賢人たちは皆、(魏の政権を)禅譲によって譲ることを望んでいるが、貴方はどう思うか?」と訊いた。すると諸葛誕は「貴方は賈豫州(賈逵)の息子ではないのか? 貴方の家は代々、魏から恩を受けてきた。それなのにどうして国家を他者に譲るなどということが言えるのか? もし洛陽で何か事が起きたなら、私は国家のために命を捧げるつもりだ」と言い放った。賈充はそれを聞いて黙り込み、洛陽へ帰還後、司馬昭に「諸葛誕は再び揚州に戻ってから、士人や民衆の心を深く掴んでいます。今召し出しても、必ず応じず、むしろ叛乱を起こすでしょう。ただし、早めの叛乱なら災禍は小さく済みます。しかしながら、もし召し出さなければ、後に叛乱を起こした際に大きな災禍となります。ですので、一層のこと今召し出すべきです」と進言した[2]。
司馬昭は、曹氏の朝廷を支持する勢力を根絶するべくこの進言を容れて、甘露2年(257年)4月に諸葛誕を(名誉職の)司空に任命し、召還を命じた。諸葛誕はこの詔書を受け取ると、入朝した際に殺されることを恐れ、自分に対する叛意の疑いを揚州刺史の楽綝が煽ったのではないかと猜疑して彼を殺害し、更に挙兵に反対した主簿の宣隆や部曲督の秦絜をも殺害した。
また淮南及び淮北の各郡や県に駐留していた十数万の官兵や、揚州で新たに募った兵士四、五万人を集めた。そして一年分の食糧を蓄え、城門を堅く閉ざして長期籠城の構えを取った。一方、平寇将軍・臨渭亭侯の龐会や騎督偏将軍の路蕃は、諸葛誕からの叛乱の誘いを拒み、部下を率いて門を破り脱出した[3]。
その後、諸葛誕は長史の呉綱に自身の末子・諸葛靚を連れて呉へ遣わし、降伏の意を示して援軍を求めた。同時に、部下の将兵の子弟を人質として差し出すよう請願した[4]。
呉綱が呉に到着すると、呉の権臣孫綝は大いに喜び、将軍の全懌・全端・唐咨・王祚らに三万の兵を率いさせ、毌丘倹・文欽の乱で敗走し呉に投降していた文欽と共に諸葛誕の掩護を命じた。また、諸葛誕に左都護・符節・大司徒・驃騎将軍・青州牧の官位を与えて寿春侯に封じた[5]。こうして諸葛誕は呉と同盟を結んだことで、魏と呉の前線にある要塞である合肥新城を守る必要がなくなったため、兵を集める際にその守備軍を撤退させて城を空にさせた。このため、呉軍は自国と寿春との間の往来が容易になった。
経過
司馬昭は魏帝・曹髦と郭太后を連れて親征を行い、曹髦は散騎常侍の裴秀と、給事黄門侍郎の鍾会を随行させた。荊州刺史の魯芝は、荊州の文官・武官を率いて先鋒を務めた。魏軍は蒗蕩渠と潁水を通って淮水に入り、甘露2年6月甲子日に車駕が項県に到着した。司馬昭は青州・徐州・荊州・豫州から徴集した諸軍と、関中からの遊軍を合わせて、総勢26万人を丘頭に駐留させた。また、廷尉の何楨に節(権限)を与えて淮南に派遣し、将兵の慰撫に当たらせ、鎮南将軍の王基を行鎮東将軍に任じ、揚州・豫州の諸軍を統率させ、安東将軍の陳騫らと共に寿春を包囲させた。この時、将軍の李広は敵に面しても進軍せず、泰山太守の常時は病と称して出陣を拒んだため、司馬昭は軍律を正すために両名を処刑した[6]。王基が寿春に到着した時点では包囲網がまだ完成しておらず、文欽・全懌らは城の東北にあった険しい山道を利用し、軍勢を率いての入城に成功した[7][8]。
一方で、東中郎将の司馬亮は失策を犯して諸葛誕に敗れたため、その責任を追及され官位を褫奪された[9]。また呉では、陸抗が奮威将軍に任じられて柴桑督として出陣し、魏の討伐軍を打ち破ったため、戦後その軍功により征北将軍に昇進した[10]。
魏の驃騎将軍王昶は兵を率いて硤石に駐留し、呉の江陵に圧力を掛けていたため、江陵の守将である施績(朱績)や全熙らは身動きが取れず、寿春の諸葛誕の支援に赴くことができなかった。
司馬昭は王基に対し、軍を集結させて壁塁を固め、呉軍とは交戦しないよう命じた。王基はたびたび出撃を要請したが、丁度その頃呉の朱異が3万の兵を率いて安豊に駐屯し、文欽の外部支援勢力となった。そこで詔により、王基が諸軍を率いて北山へ移動し、要地を占拠するよう命じられた。これに対し王基は諸将に「今、包囲のための陣地は既に堅固に築かれ、兵馬もほぼ集結している。今こそ守りを整え、敵が突破しようとするのを待つべき時である。それなのに、兵を移動させて要地を守らせれば、却って城内の敵を自由にさせてしまう。このような措置では、たとえ聡明な者でもその後の戦局を上手く運ぶことはできまい」と言い、王基は有利な策を貫いて寿春の包囲を続ける一方で「今、我が軍は敵と対峙し、まるで山の如く動かずに居ります。此処で軍を移して地の利に頼るならば、士気は乱れ、形勢に大きな悪影響を及ぼします。諸軍はすでに深い堀と高い城壁とを備えた陣地を占拠し、士気も安定しております。ここで再び動揺を与えるのは避けるべきことであり、これこそが軍を治める要諦であります」との上奏文を奉った。この上奏は容れられ、王基らは四方から寿春を完全に包囲し、内外二重の包囲網を築き、深い堀と高い壁塁による堅固な防御体制を整えた。文欽らは何度も城外に打って出て包囲を突破しようとしたが、いずれも迎撃を受けて撤退を強いられた[11]。
司馬昭はさらに、奮武将軍として青州諸軍の軍事を監督していた石苞を派遣し、兗州刺史の州泰および徐州刺史の胡威らが率いる軽装の精鋭部隊を遊撃軍として統率させて外敵に備え、その後州泰は陽淵において呉の朱異を撃破し、朱異は敗走した。州泰はこれを追撃し、呉軍に約2000人の損害を与えた[12]。
7月、孫綝は多数の兵を動員して鑊里に駐屯し、朱異に将軍の丁奉、黎斐ら5人を率いさせて、寿春の包囲を解くために派遣した。しかし孫綝自身は敵を恐れて巣湖の船上に留まり、前線に出ようとしなかった。孫亮が唐咨の援助のために上陸するよう命じても、孫綝は断固として動かなかった。朱異は補給物資と糧食を都陸に残して黎漿に進軍したが、石苞と州泰に敗れた。その上、泰山太守の胡烈が5千の精兵を率いて都陸を奇襲し、朱異の物資と糧食をことごとく焼き払った。朱異は敗残兵を率いて葛の葉を食べながら逃げ、孫綝のもとへ帰還することに成功した。
しかし孫綝は朱異に再度死力を尽くして戦うよう命じ、朱異が「兵士の食糧がない」として断ると、孫綝はこれに激昂して朱異を処刑し、軍を率いて建業に帰還した。孫綝は諸葛誕を救出することができず、大勢の兵を失い、あまつさえ自軍の将を殺したため、呉の人々で彼を恨まない者はいなかったという[13]。一方で孫綝は、代わりに自身の弟である孫恩を派遣して諸葛誕の救援に向かわせた。司馬昭は「朱異が寿春に到達できなかったのは、彼の罪ではない。然し呉は彼を殺した。これは寿春の守将たちを安心させ、諸葛誕に『まだ援軍が来る』という希望を持たせて、籠城の意思を強めさせるためだ。だからこそ、今は包囲を強化し、彼らが突破して逃げ出そうとするのを防がねばならない。加えて、彼方に誤った判断をさせる工夫をせよ。」と言い、至る所に「呉の援軍は間も無く到着する。魏軍は食糧が不足していて、病人や弱兵を淮北に送り出して、彼処の食糧を取らせている。見たところ、包囲戦も長くは続けられそうにない。」などといった噂を広めて離間の計を図った[14]。
一方で諸葛誕らは安心し、自由に食糧を消費していたが、しばらくして城中の食糧が尽きてしまい、それでも一向に外からの援軍は現れなかった。この時、参謀の蔣班・焦彝が諸葛誕に「朱異らが大軍を率いて援軍として来ながら入城できず、孫綝は朱異を殺して江東へ引き返しました。表向きは救援の名目で軍を出したように見えますが、実際には戦局の成り行きを見て傍観するつもりでしょう。まだ将兵の士気が保たれている内に、全力を挙げて突破口を突き死力を尽くしてでも攻めるべきです。たとえ完全な勝利は得られなくとも、軍の力を保つ道はあります。しかし、ただここで座して籠城を続けていれば、いずれ道は絶たれ、全滅は免れません」と進言した。すると文欽は「公(諸葛誕)は今、十数万の兵を率いて呉に帰順しようとしています。そして私や全端らも共に死地に身を置いています。我々の父兄や子弟は皆、江南にいます。たとえ孫綝が援軍を出したくないとしても、主君やその一族がそれを許すでしょうか? それに魏には一年として平穏な時はなく、今彼らはすでに一年も我々を包囲していて軍民は疲弊しきっているでしょうから、そろそろ内乱が起きてもおかしくはない時期です。なぜこの地を捨てて、危険な突破を試みるような愚を犯すのですか?」と蔣班と焦彝の意見に反対した[15]。
諸葛誕は文欽の意見を容れたが、蔣班・焦彝を退かせることはおろか殺害を図った。二人はこれを耳にすると戦慄し、11月、ついに諸葛誕に叛いて城壁を越え魏に投降した。また、呉にいた全懌の兄の子である全輝(全禕)・全儀は建業において家族との間で諍いを起こし、母親と数十家の部曲を伴って魏に帰順した。その時、全懌、兄の子の全靖、そして全端の弟の全翩・全緝らは皆、寿春の城内で軍を率いていたため、司馬昭は黄門侍郎・鍾会の策を採って、密かに全輝・全儀の名で「呉は全懌らが寿春を包囲している敵を打ち破れなかったことに激怒し、将軍たちの家族を全員処刑しようとした。それゆえ私たちは難を逃れるため魏に帰順したのだ」との書簡を記し、彼らの親しい者を介して城内に届けさせた。
12月、これを聞いた全懌らは配下の兵士数千人を率いて城門を開き、魏に降伏した。司馬昭は全懌を平東将軍に任じて臨湘侯に封じ、全端らもそれぞれ異なる官職や爵位を与えられた。これによって寿春の城内に動揺と混乱を生むこととなった[16]。
そして丁度この時、大将軍司馬昭の参軍として従軍していた王昶の子である王淪が病に罹患し亡くなった。司馬昭は王淪の訃報を聞くなり涙を流したという。
甘露3年(258年)、文欽は諸葛誕に「蔣班や焦彝は、我々は城を出て脱出することはできないと言っていたが、全端・全懌らがすでに軍勢を率いて魏に投降してしまった今、敵が油断している今こそ、城を出て一戦を挑む好機である」と進言した。諸葛誕や唐咨らはこの意見を諾い、兵器などを準備し、5、6日の間昼夜を問わず南側の包囲を突破しようと猛攻を仕掛け続けた。
一方で魏軍は高所から石を飛ばす投石車や火矢などで迎撃したため、呉軍の攻城兵器は次々に焼き崩され、矢石は雨のように降り注ぎ、戦死・負傷者が地に満ち壕は血で満たされたため、諸葛誕らはやむなく城内に撤退した。城内の食糧は日に日に枯渇を極め、降伏して城外に出る者は既に数万人に達した。
文欽は「北方出身の兵たちをことごとく皆降伏させて食糧を節約し、自分と呉の者たちだけで城を守り続けたい」と進言したが、諸葛誕はこれに同意せず、これ以降両者の間には軋轢が生じることとなった。なお、もとより文欽と諸葛誕の仲は良くなく、ただ司馬昭への反抗という一点で協力していただけであった。事態が切迫するに連れ、両者の間に猜疑と対立が深まっていった。
そしてある時、文欽が諸葛誕の元へ作戦の相談に参じた際に、その意見の対立から諸葛誕は文欽をその場で殺害した。この知らせを聞いた文欽の息子である文鴦と文虎は、城東一里の地点に諸葛誕が築いていた小城に駐屯していたが、父の死を知ると、復讐のため兵を率いて攻めようとした。しかし味方が誰も従わなかったため、二人は単独で城壁を越えて脱出し魏に投降した[17]。
軍吏が彼らを殺すよう司馬昭に進言したが、司馬昭は「文欽の罪は万死に値するものであり、その息子も本来ならば殺すべきだ。しかしながら、文鴦と文虎は他に道がなく投降してきた。それに城は未だ陥落しておらず、彼らを殺せば、城内の敵兵は益々死守する決意を固めてしまうだろう」と言い、そこで文鴦と文虎を赦す代わりに数百騎を率いさせて城の周りを巡り、「文欽の息子ですら殺されないのだから、他の者は何を恐れることがあろうか!」と大声で叫ぶことを命じた。また、文鴦と文虎をどちらも将軍に任じ、関内侯の爵位を与えた。城内の人々はこれを聞いて喜んだ。また人々は日増しに飢え疲れていっていたため、司馬昭は自ら包囲陣を視察し、城上で弓を構える者が矢を放たないのを見て「進攻できる」と確信した。そこで四方から進軍するよう命じ、同時に喚声を上げながら城壁に上り、2月20日、魏軍は遂に寿春城を陥落させた。諸葛誕は切迫し、単騎で麾下の部下を率いて小城から脱出したが、胡奮麾下の兵士に殺され、その三族も誅殺された。諸葛誕の配下数百人は、両手をこまねいたまま一列に並んだが、投降しようとしなかった。一人殺すごとに、残りの者に降伏するかどうか尋ねたが、依然として彼らの態度は毅然としており、果たして全員殺し尽くされた。
呉の于詮は「大丈夫たるもの君主から命を受けて兵を率いて救助に来たのに、勝利することもできず、敵の捕虜となるとは。私は決してそんなことはしない」と言うと、甲冑を脱いで敵の陣営に突入して戦死した。唐咨・王祚らは皆降伏し、捕虜となった呉の兵卒は1万人以上にのぼり、鹵獲した兵器は山のように積み重なっていた[18]。
寿春の城は毎年雨が降り、淮河の水嵩が増して城を水没させていた。司馬昭が包囲の為の工事を始めた時、諸葛誕は「攻めなくても自滅するだろう」と嘲笑していた。しかし、司馬昭が攻城している間は一年以上も旱魃が続いた。城が陥落したその日になってようやく大雨が降り、司馬昭の築いた包囲の工事はことごとく破壊されたという。
一方で孫恩は、諸葛誕が敗死したことを知ると、自らも軍を引き揚げ呉に帰還した。