子供の頃は、音楽に対して特別興味は無かったという。学校の成績は総じて良かったが、音楽だけは声の悪さが災いして成績が悪かったため、「音楽は歌だけではない」と話す生明家の女中の勧めでピアノを習い始める[1]。嫌々ながらもピアノは暫く続いたが、戦争が激しくなると住んでいた家は壊され、父親も早くに亡くなってしまい、ピアノどころではなくなって行った。とにかく食べていくことを最優先に考えなくてはならず、自分には何が出来るか考えたとき、「音楽しかない」という結論に行き着いた。
ピアノの次にコントラバスを弾き始めるが、自力で練習するほかに武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)へ行き、学生に紛れて弾くこともあった[1]。戦後間もない頃、東京駅の降車場付近で進駐軍を相手にジャズを演奏する音楽家のグループに参加。東京のほか、朝霞や熊谷のキャンプまで行かされることもあったという[2]。その後ヴィブラフォンを演奏するようになり、クラリネット奏者の藤家虹二とバンドを組んで活動する。その後審査を経て「秋満義孝クインテッド」のメンバーに加入し、作曲家の萩原哲晶と知り合い、ヴィブラフォン演奏で内幸町のナイトクラブ「Manuela」や労音(勤労者音楽協議会)のコンサート等に参加した。なお、同バンドでは6年ほど活動が続いた[2]。
1950年代に入ると、映画などの劇伴音楽の演奏に携わるようになり、日活『錆びたナイフ』(1958年) や『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年) 等の演奏に参加した[2]。
1976年にアジア、中近東、アフリカを旅し、各地で様々な民族と交流を持った際に民族と音文化の関わりに興味を抱き、民族音楽の研究や民族楽器の収集を行った[3]。
1989年、中国の雲南芸術学院で開催された少数民族音楽学会に参加し、この際に発表した伝承機能音階論が世界的に高い評価を受けた[4]。
演奏家としての活動のほか、音楽人類学者としてこれまでに学習院大学講師、星槎大学客員特別講師、東京外語大学、学習院大学、学習院女子短期大学、高崎芸術短期大学で客員教授、東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員等を歴任した。
その後も打楽器のスタジオ・ミュージシャンとして、映画、ラジオ、テレビの劇伴のほか、演歌から現代音楽まで幅広いジャンルのレコーディングや演奏会に参加した[5]。これまで演奏に携わった楽曲は15,000曲以上に上り、日本でこの楽器が使われる際は、そのほとんどを生明が弾いていると言っても過言ではないほどの活躍ぶりであった。
2018年1月30日に死去[6]。