田尻愛義
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溥儀連れ出し工作
汪兆銘工作
1933年には東京に戻り、アジア局第一課へ。1934年には二課長になった。その後1935年から1937年にかけて東京勤務と中国勤務を繰り返し、1937年7月の盧溝橋事件は上海で迎えることになる。1938年1月の近衛声明「蔣介石を対手とせず」には、回想録に「唖然とせざるを得なかった」と強い批判を書き残している。
1938年7月、外務書記官、調査部第五課長として東京に帰任。ここで影佐禎昭大佐より、「汪精衛(汪兆銘)を重慶政府に寝返りさせて、抗日の蔣介石陣営から引き抜く」という、いわゆる「汪兆銘工作」の企画を知らされる。さらに中国側の高宗武より西義顕に対して「お互い気心の知れている」田尻を香港総領事に任命してほしい、との要望があり、報を受けた有田外相はこれを即諾、田尻は1938年11月、香港総領事に就任した。
ただし田尻は汪兆銘に対しては強い批判を持っており、汪兆銘政府成立時には、影佐大佐に対して、「汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合してその長になろうというのは……私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、もう中国、中国人のための平和幸福の目標を捨てている。……しかも自分をも裏切るばかりか、占領地の中国人を欺くことにもなる」と痛烈な批判を行っている。
田尻は有田八郎外相に対して汪兆銘政府樹立の再考を進言したが、既に軍部の方針は定まっていた。結局1940年3月、汪兆銘の南京国民政府が成立することとなった。
1940年1月、東亜局第一課長勤務。この時田尻は、汪兆銘との内約を「汪政府と正式に交渉して同意をとりつけ、両政府間、したがって日中両国間の基本条約にしたい」との興亜院の要求を受けた。田尻は「すでに世界に醜悪を暴露した内約」「天下の物笑いになる」と強く反対し、回想録の中では興亜院に対して「狂人ぞろい」とまでの痛烈な批判を行っている。しかし結局は興亜院、軍の意向を受け入れざるを得ず、田尻は、この時期ほど「無意味で無目的な、そして良心に反する痛々しいものはなかった」と回想している。
終戦まで
その後も田尻は東京勤務と中国勤務を繰り返し、その間、重慶政府との和平交渉に携わるなどの活動を行った。
日米開戦時には外務省調査部長の地位にあった。田尻は日米開戦に強く反対し、東條英機陸軍大臣と会談した際には「支那事変[2]の尻ぬぐいをする日米戦争には(私は)何の役にもたたぬから辞めさせてほしい」と申出たが、受け付けられなかった。
1942年には特命全権公使、南京大使館上海事務所長となる。「汪政府に協力を余儀なくされる地位」であることに田尻は不満を持つが、「上海までが陸軍色に塗りつぶされては、支那事変の直接解決、外交の一元化はいよいよ難しくなる」との考えから、田尻はこの職を引き受けた。
上海事務所長時代には、「南京政府を束縛している」不平等条約の改訂に尽力。しかし大臣に対しても率直に意見を言う「出しゃばりすぎる私の癖」が災いし、1944年4月には「フィリピンの島流し」となった。
1945年1月、米軍の上陸を控えたフィリピンを脱出。1945年5月には、鈴木貫太郎内閣の下、大東亜省次官を務めることとなった。大東亜大臣は東郷茂徳外務大臣が兼任していたため、田尻は実質大東亜省のトップであった。田尻は「敗戦は時間の問題になってきた。戦後の対策を省をあげて具体的に研究することにしたい」と訓示したという。