田村怡与造

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渾名 今信玄
死没 (1903-10-01) 1903年10月1日(48歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
田村たむら 怡与造いよぞう
渾名 今信玄
生誕 1854年11月30日嘉永7年10月11日
江戸幕府甲斐国東山梨郡相興村中尾
死没 (1903-10-01) 1903年10月1日(48歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1878年 - 1903年
最終階級 陸軍中将
墓所 青山霊園立体埋蔵施設
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田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日嘉永7年10月11日) - 1903年明治36年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将位階勲等功級従四位勲二等功三級

甲斐国東山梨郡相興村中尾(現山梨県笛吹市一宮町)に田村義事の長男として生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。1872年(明治5年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川七良の娘・伝子を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。

1875年(明治8年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。1878年(明治11年)12月に卒業し、1879年(明治12年)2月、歩兵少尉として熊本歩兵第13連隊(聯隊長は川上操六)に配属され、新兵教育を行う。同年8月には参謀本部出仕となり測量課に配属される。翌1880年(明治13年)5月には士官学校付となる。薩長藩閥の弊害を憂いていた長岡外史浅田信興が結成した「月曜会」にも参加。

参謀将校の小坂千尋に勧められ、早川怡与造中尉は1883年(明治16年)4月にドイツ帝国へ留学し[1]ベルリン陸軍大学校で学ぶ。本国へのドイツ情勢報告書が評価され、2年の留学期間を延長して滞在し[2]、川上操六とともに軍事研究に励む。1885年(明治18年)6月2日付で大尉に昇進し[3]1886年(明治19年)10月1日から欧州各国巡回訪問中の小松宮彰仁親王に随行した[4]1887年(明治20年)2月25日付で再び独国留学生となり[5]、同年10月に、ドイツ帝国で小松宮を接待したベルンハルト3世(ザクセン=マイニンゲン公)[6]ドレスデンの猟兵大隊で隊付して軍事研究(実戦訓練に参加)をさせてもらい[7]、その後、同年12月からその翌年の1888年(明治21年)末まで(ドイツ帝国)プロイセン王国の首都ベルリンの歩兵連隊でも隊付した[8]

1888年(明治21年)6月に帰国し[9]、翌月、監軍部(のちの教育総監部)へ配属され参謀に就任[10]。同年10月、陸軍大学校御用掛も兼ねる。翌1889年(明治22年)11月には参謀本部第一局員となり歩兵少佐に昇任[11]。陸軍のフランス式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站勤務令』の策定や、陸軍演習の作戦計画を担当。

1893年(明治26年)4月、朝鮮半島での利権を巡り清国との関係が緊迫化すると、情勢把握のため参謀次長の川上操六らと半島へ渡航し、江南地方まで巡回する。帰国後は軍事情勢の分析や対清戦争を想定して陸軍の戦時編成を立案。大本営が設置されると、戦略を担当する川上に対し、動員令の策定や作戦実務を分担する。同年9月21日、村田銃(村田式連発銃)の付属弾薬盒審査に関わり砲兵会議臨時議員に指名され[12]、12月14日、「戦時弾薬補給令規程に付[き?]野戦弾薬の区分中各所に備うべき歩砲兵団役員数の件審査のための」砲兵会議臨時議員に選ばれた[13]、12月25日、海軍省からも海軍軍令部第1局局員に指名された[14]

1894年(明治27年)4月27日付で、村田銃(村田式連発銃戦時弾薬数数額及歩兵装具)の調査委員にも選ばれた[15]。同年7月下旬に勃発した日清戦争では、はじめ大本営兵站総監部参謀として兵站を担当し、8月には前線での作戦指導を命じられる。8月31日、歩兵中佐に昇進して[16]、9月2日に第一軍参謀副長(司令官は山縣有朋)として日本を出発し、参謀長の小川又次を補佐した[17]1895年(明治28年)1月22日、(再び?)海軍軍令部第1局局員に指名された[18]。その後、『歩兵第9連隊史』によれば(『官報』には記載なし)、同年2月22日から10月4日まで歩兵第9連隊の連隊長を務めた[19]。同連隊は村田銃(村田式連発銃)を手渡されて[20]、3月24日、第2軍に編入され[21]、4月11日、船で大陸に向けて出港し[22]、清国大連港に入港したが、船に留められるうちに講和(下関条約)が成立した[23]ので、歩兵第9連隊は、遼東半島守備に着いた後、海城(かいじょう)などの地に9ヶ月駐屯した。その途中の9月24日、田村は、ドイツ帝国公使館付武官に任命された[24]。しかし、10月に韓国で乙未事変が起こるとすぐに現地での調査を命じられ[25]、韓国での調査を終えて、同年12月21日頃帰国[26]

やっと翌年の1896年(明治29年)2月8日にドイツへ出発[27]1897年(明治30年)6月29日と7月2日付で独逸国駐在員(公使館付武官)兼(駐在留学生などの)取締員を免ぜられた[28]。同年10月11日付で歩兵大佐に進級し参謀本部第二部長に発令され[29]1898年(明治31年)1月16日に帰国した[30]。同年2月2日、福島安正と共に宮内省から東宮御用掛を仰せつけられた[31]1899年(明治32年)1月23日付で参謀本部第2部長から第1部長になる[32]。同年には仮想敵国のロシア帝国との戦争が想定されているなか参謀総長の川上が死去し、後任には大山巌、参謀次長には寺内正毅が就任した。北清事変の直前の1900年(明治33年)4月6日、参謀本部第1部長兼参謀本部総務部長に任命され[33]、4月25日に陸軍少将に昇進し東部都督参謀長を兼任した[34]、10月まで同第1部長を兼務した。1902年(明治35年)4月に参謀本部次長に就任し、同年12月、鉄道会議議長を兼務。田村は日露開戦には消極的であったがロシア帝国との戦争を想定して戦略を練り、過労のため日露戦争開戦の前年に卒去した。享年50才。同日、陸軍中将に進級。後任には児玉源太郎が降格して就任した。

墓所は東京都港区南青山の青山霊園1-イ-21-11にあったが、2020年、同墓地内の立体埋蔵施設に合祀され、墓石は撤去された。

人物

  • 優れた戦略家とも評され、川上操六は山梨出身の田村を戦国時代の甲斐国主・武田信玄になぞらえて「今信玄」の異名で呼び、小川又次を「今謙信」と評して対比させた。
  • 陸軍軍医で作家としても著名である森鷗外(林太郎)とも親交があり、鴎外の『独逸日記』にも記されている。鴎外は1885年(明治18年)に衛生学研究のためドイツ留学しており、田村とともにクラウゼヴィッツの『戦争論』を研究。田村は鴎外の小倉師団在任中に同書の翻訳を勧めたといわれる。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

出典

参考文献

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