田総元勝
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生涯
備後国甲奴郡田総庄[注釈 1]の川平山城を本拠として毛利氏に従った国人・田総元里の子として生まれる[2][5]。
天正2年(1574年)10月、備中国の三村元親が毛利氏に反旗を翻し備中兵乱が始まると、同年閏11月初めに毛利輝元と小早川隆景が吉田郡山城から備中国へ出陣し、元勝も従軍した。同年12月26日に三村政親が守る備中西部の国吉城を毛利軍が包囲し攻撃を開始すると、敵わないと見た三村政親はしきりに降伏を申し出たが、小早川隆景は備中攻めの初戦であるため城兵は悉く討ち果たすべしと主張して降伏を認めず、国吉城への攻撃を続行。12月30日に三村政親が密かに国吉城を脱出したが、翌日の天正3年(1575年)1月1日に国吉城は陥落した。この時毛利軍が討ち取った敵兵はほぼ全滅にあたる305人に及んでいるが、その内の11人を元勝の軍が討ち取っている[注釈 2][6]。
天正4年(1576年)、備後国甲奴郡知和郷に厳島神社を再建する[8]。
その後の動向や没年は不詳だが、寛永13年(1636年)6月8日に萩藩士の長井七郎右衛門が、田総に在住する田総孫右衛門に宛てた書状によると、元勝は大坂において死去したと伝えられている[9]。