田総元勝 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 不詳別名 通称:宗左衛門尉[1] 凡例田総 元勝時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 不詳別名 通称:宗左衛門尉[1]主君 毛利隆元→輝元氏族 大江姓長井氏流田総氏[2]父母 父:田総元里[1]、母:山内直通の娘?[3]子 元好[1]、元忠[4]テンプレートを表示 田総 元勝(たぶさ もとかつ、旧字体: 田總 元勝)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備後国甲奴郡田総庄[注釈 1]の川平山城を本拠とした国人[2][5]。毛利氏に属する。通称は「宗左衛門尉」。父は田総元里。 備後国甲奴郡田総庄[注釈 1]の川平山城を本拠として毛利氏に従った国人・田総元里の子として生まれる[2][5]。 天正2年(1574年)10月、備中国の三村元親が毛利氏に反旗を翻し備中兵乱が始まると、同年閏11月初めに毛利輝元と小早川隆景が吉田郡山城から備中国へ出陣し、元勝も従軍した。同年12月26日に三村政親が守る備中西部の国吉城を毛利軍が包囲し攻撃を開始すると、敵わないと見た三村政親はしきりに降伏を申し出たが、小早川隆景は備中攻めの初戦であるため城兵は悉く討ち果たすべしと主張して降伏を認めず、国吉城への攻撃を続行。12月30日に三村政親が密かに国吉城を脱出したが、翌日の天正3年(1575年)1月1日に国吉城は陥落した。この時毛利軍が討ち取った敵兵はほぼ全滅にあたる305人に及んでいるが、その内の11人を元勝の軍が討ち取っている[注釈 2][6]。 天正4年(1576年)、備後国甲奴郡知和郷に厳島神社を再建する[8]。 その後の動向や没年は不詳だが、寛永13年(1636年)6月8日に萩藩士の長井七郎右衛門が、田総に在住する田総孫右衛門に宛てた書状によると、元勝は大坂において死去したと伝えられている[9]。 脚注 注釈 [脚注の使い方] 1 2 現在の広島県庄原市総領町。 ↑ 国吉城攻めにおいて各軍が討ち取った敵兵の数の内訳は多い順に、毛利輝元の本軍が95人、宍戸隆家の軍が53人、熊谷高直の軍が29人、阿曽沼広秀の軍が28人、馬屋原信春の軍が27人、天野元明の軍が26人、平川盛吉の軍が13人、田総元勝の軍が11人、小早川隆景の軍が8人、天野元政の軍が5人、細川通董の軍が3人、上原元将の軍が3人、長元信の軍が2人、山内隆通の軍が1人、平賀元相の軍が1人[6][7]。 出典 1 2 3 萩藩諸家系譜 1983, p. 992. 1 2 3 萩藩諸家系譜 1983, p. 991. ↑ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 129. ↑ 田口義之 2001. 1 2 田口義之 2001, p. 1. 1 2 毛利輝元卿伝 1982, p. 58. ↑ 『毛利家文書』第375号、天正3年(1575年)1月1日付、備中國手要害合戦頸注文。 ↑ 総領町誌 1994, p. 963. ↑ 総領町誌 1994, p. 189. 参考文献 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。 国立国会図書館デジタルコレクション 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。 国立国会図書館デジタルコレクション 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。 国立国会図書館デジタルコレクション 総領町誌編さん事務局 編『総領町誌』総領町、1994年3月。全国書誌番号:94058903。 国立国会図書館デジタルコレクション 田口義之「田総長井氏の興亡の跡」備陽史探訪の会、2001年3月。 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻89「田總惣左衛門」 Related Articles