由布惟次
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永禄元年(1558年)、由布惟信の子として誕生。元亀元年(1570年)に、父や弟と共に立花道雪に従って筑前国に向かう。道雪の譜代家臣の一人として父と共に筑前各地を転戦する。
天正9年(1575年)11月13日、 立花方は大友氏家臣・毛利鎮実の筑前鷹取山城を兵糧運輸する際、その帰路に宗像氏の家臣や杉氏、秋月氏方との小金原の戦い[2]にて、得意の鉄砲を持って敵大将・河津修理進を狙い撃ち、首を得て戦功を挙げたが、この戦で刀や槍によって13ヶ所ものの深傷を受け、感状も受領した[3][4]。その後、足が不自由となり、留守居役として内政奉行に勤めるが、慶長の役でも立花軍の三番隊367兵を率いて、般丹の戦いなどで活躍した[5]。弟・惟紀は朝鮮派兵で戦死した。
文禄5年(1596年)には父・惟信から家督と3,500石の俸禄を継承する[6][7]。さらに慶長4年(1599年)に婿養子・立花惟与が由布氏の家督を継承する[8]。関ヶ原の戦い後、立花家は改易となり一族と共に主君・宗茂に従い浪人となったが、慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて陸奥国棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、父の惟信と共に藩内の行政を担当した。
のち元和6年(1620年)立花家の柳河再封後も、宿老の一人として、惟与と共に各類の文書や内政、外交事務を担当した。家督は婿養子で十時連貞の長子でもある惟与(のちに立花姓)が相続する。
なお、『将士軍談』では由布惟明(大炊介)の次男である由布三五兵衛西雲と父の惟信と混同されているが「柳河藩享保八年藩士系図・上」によれば別家である。