番町文人通り
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江戸時代
番町はもともと江戸城の西側警護を任されていた大番組の居住地であった。一番組から六番組まであり、江戸開府以前の文禄元年(1592年)には六組の大番組の屋敷割はされていた。当時の割り振りとは異なるもののその後も一番町から六番町として地名が継承されている[1]。
尾張屋清七による『御江戸番町切絵図』では番町文人通りは「表ニハン丁(表二番丁通り)」と書かれており、西端の四谷御門側は成瀬隼人正の屋敷で、向かいには現存する心法寺が記されている。成瀬の屋敷の前は「ナルセヨコ丁(成瀬横丁)」と記されている[2]。
明治から昭和
番町は明治維新以降旗本がいなくなり、空き地は桑畑になった。その後旗本屋敷跡地は政治家や官僚が暮らすようになり、また文人が多く暮らすようになった[3]。
明治29年(1896年)に父・有島武が購入した総坪数1,126坪の下六番町8、9、10番地(現在の麹町六番町3番地付近)の、もともとは旗本の屋敷だった家で有島武郎、有島生馬、里見弴の兄弟は育った[4][5]。
大正12年(1923年)に有島武郎が死去した後、本宅には菊池寛が文藝春秋社を置いた[6]。
昭和3年(1928年)に発行された『大東京繁昌記 山手篇』の中の「山の手麹町」という随筆の中の「文人町」の節で有島生馬は以下の様に記している[7]。
番町文人通りの名前の由来はここからである[8]。

この界隈は東京大空襲により一面が焼け野原になったことから、旧居などはほとんど現存していない[9][8]。昭和26年(1951年)ごろ野田宇太郎はこの辺りについて書き残している。
今はすべて灰燼と化した。鏡花世を去り、藤村も亦逝き、滝太郎も亡く、里見、生馬の兄弟は夫々鎌倉の家に落着き、戦後まもなく若い武田麟太郎さえも世を去った。万物荒涼、復興の萌しはあるが、その完成は何時のことか[10]
平成以降
千代田区では平成18年度より「まちの記憶保存プレート」事業を行っており後世に伝えている。番町文人通りにも多くのプレートがある[11]。平成21年(2009年)「番町文人通り」が正式な道路名称となった[12]。もともとが旗本屋敷だったため敷地が広く、マンションやオフィス街に変わっていった[3]。
番町文人通り周辺の旧居
この通りの周辺には、明治から昭和にかけて多くの作家・芸術家が居住した。特に下六番町周辺には文人の居宅が集中し、有島生馬が「文人町」と呼んだ背景ともなっている[7]。
有島家と文藝春秋の関係者

- 有島武郎・有島生馬・里見弴[9] - 「まちの記憶保存プレート」設置[13]
- 菊池寛 - 有島家の敷地内長屋門のある母屋に有島武郎の死後居住[14]。文藝春秋社の事務所も置いた[9]。「まちの記憶保存プレート」設置[13]
近隣に居住した文学者
- 泉鏡花 [9]- 当時の麹町下六番町十三番地に居住。旧居跡に 「まちの記憶保存プレート」設置[13]。明治43年(1910年)5月から昭和14年(1939年)に亡くなるまで住んでいた。この期間に『三味線掘』『南地心中』『日本橋』『由縁の女』などを執筆した[10]。
- 水上瀧太郎 - 泉鏡花夫人の勧めで居住[15]。泉鏡花によって「元禄屋敷」と名付けられた旗本屋敷に住んでいた[16]。
- 島崎藤村[9] - 明治女学校の教師を務めたこともあり、晩年暮らした[17]。「まちの記憶保存プレート」設置[13]
- 武田麟太郎[18] -居住[8]
- 直木三十五[9] - 居住[8]
詩人・文化人
芸術・芸能関係
- 藤田嗣治 - アトリエがあった[9]
- 川喜田半泥子[18] - 「まちの記憶保存プレート」設置[13]
- 中村吉右衛門[18] - 居住[8]
- 若山富三郎・勝新太郎 - 居住[19]
- 三代目 三遊亭圓歌 - 旧有島邸に居住していたことがある[20]
明治女学校関係者
明治女学校の「まちの記憶保存プレート」が設置されている[21]



