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番町文人通り

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路線延長1.06Km
終点東京都千代田区麹町6丁目
接続する
主な道路
記法
大妻通り、新宿通り(麹町大通り)
番町文人通り
路線延長 1.06Km
起点 東京都千代田区一番町
終点 東京都千代田区麹町6丁目
接続する
主な道路
記法
大妻通り、新宿通り(麹町大通り)
テンプレート(ノート 使い方) PJ道路
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300 m
新宿通り(麹町大通り)との合流点
大妻通りとの合流点
番町文人通り
『御江戸番町切絵図』 地図上右下の成瀬隼人正の屋敷の赤い丸から左上に伸びている通りが、現在の番町文人通り。

番町文人通り(ばんちょうぶんじんどおり)は、東京都千代田区麹町大通り大妻通りをつなぐ街路。明治から昭和にかけて多くの作家文学者が住んでいたことから、文人通りと名付けられ、有島武郎、菊池寛、泉鏡花などの旧居跡地に多くの案内プレートが設置されている。

江戸時代

番町はもともと江戸城の西側警護を任されていた大番組の居住地であった。一番組から六番組まであり、江戸開府以前の文禄元年(1592年)には六組の大番組の屋敷割はされていた。当時の割り振りとは異なるもののその後も一番町から六番町として地名が継承されている[1]

尾張屋清七による『御江戸番町切絵図』では番町文人通りは「表ニハン丁(表二番丁通り)」と書かれており、西端の四谷御門側は成瀬隼人正の屋敷で、向かいには現存する心法寺が記されている。成瀬の屋敷の前は「ナルセヨコ丁(成瀬横丁)」と記されている[2]

明治から昭和

番町は明治維新以降旗本がいなくなり、空き地は桑畑になった。その後旗本屋敷跡地は政治家や官僚が暮らすようになり、また文人が多く暮らすようになった[3]

明治29年(1896年)に父・有島武が購入した総坪数1,126坪の下六番町8、9、10番地(現在の麹町六番町3番地付近)の、もともとは旗本の屋敷だった家で有島武郎有島生馬里見弴の兄弟は育った[4][5]

大正12年(1923年)に有島武郎が死去した後、本宅には菊池寛文藝春秋社を置いた[6]

昭和3年(1928年)に発行された『大東京繁昌記 山手篇』の中の「山の手麹町」という随筆の中の「文人町」の節で有島生馬は以下の様に記している[7]

去年、幸田露伴先生が裏の借家を見に来られた時、ここは文人町ですねといつて帰られたさう。だが、なる程その頃は菊池君や里見が西隣に住んでゐたし、今いつた水上君、それに廿年も同じ貸家に定住してゐられる泉鏡花先生が横町の道一つ隔てた隣にゐられる。私が夏庭に出て、龍吐水で水をまきながら、先生の玄関前にもと思つて、ちうちうやつていると、奥さんが格子窓から首を出して、あなた、座敷の中へ水が飛び込みますよ、と怒鳴られる近さである。パリ一邊なら取あへず文人町とでも改名される所だ。
有島生馬、大東京繁昌記 山手篇[7][注釈 1]

番町文人通りの名前の由来はここからである[8]

番町文人通り標識。麹町大通り側

この界隈は東京大空襲により一面が焼け野原になったことから、旧居などはほとんど現存していない[9][8]昭和26年(1951年)ごろ野田宇太郎はこの辺りについて書き残している。

今はすべて灰燼と化した。鏡花世を去り、藤村も亦逝き、滝太郎も亡く、里見、生馬の兄弟は夫々鎌倉の家に落着き、戦後まもなく若い武田麟太郎さえも世を去った。万物荒涼、復興の萌しはあるが、その完成は何時のことか[10]

平成以降

千代田区では平成18年度より「まちの記憶保存プレート」事業を行っており後世に伝えている。番町文人通りにも多くのプレートがある[11]平成21年(2009年)「番町文人通り」が正式な道路名称となった[12]。もともとが旗本屋敷だったため敷地が広く、マンションやオフィス街に変わっていった[3]

番町文人通り周辺の旧居

About OpenStreetMaps
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150 m
番町の森(日本テレビ旧社屋跡地)
直木三十五
武田麟太郎
菊池寛
川喜田半泥子
中村吉右衛門
藤田嗣治
串田孫一
網野菊
与謝野晶子・鉄幹
与謝野晶子・鉄幹
水上瀧太郎
武者小路実篤
島崎藤村
泉鏡花
有島邸
番町文人通り 旧居一覧

この通りの周辺には、明治から昭和にかけて多くの作家・芸術家が居住した。特に下六番町周辺には文人の居宅が集中し、有島生馬が「文人町」と呼んだ背景ともなっている[7]

有島家と文藝春秋の関係者

有島武郎•有島生馬•里見弴旧居跡(千代田区まちの記憶)
  • 有島武郎・有島生馬・里見弴[9] - 「まちの記憶保存プレート」設置[13]
  • 菊池寛 - 有島家の敷地内長屋門のある母屋に有島武郎の死後居住[14]。文藝春秋社の事務所も置いた[9]。「まちの記憶保存プレート」設置[13]

近隣に居住した文学者

詩人・文化人

芸術・芸能関係

明治女学校関係者

明治女学校の「まちの記憶保存プレート」が設置されている[21]

日本テレビと番町文人通り周辺

脚注

外部リンク

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