白河以北一山百文

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白河以北一山百文」(しらかわいほくひとやまひゃくもん)とは、戊辰戦争で勝利した官軍(新政府軍)を率いていた薩摩長州が、敗れた東北侮蔑した慣用語である[1]

白河から北(=現在の東北地方)は一山百程度しか値打ちがない」という意味の言い回し[2]戊辰戦争白河口での戦いに勝利を確信した新政府軍の高官が漏らした言葉であったと一般には言われている[3]が、実証されているわけではない[4]

別説

西南戦争が勃発した頃の1878年明治11年)に発行された「近事評論」第148号に漂風子[注 1]の執筆となる薩長政府に対する風刺を込めた「白河以北一山百文」の記事が掲載されている[1][5]。この記事には概ね次のような内容が書かれている。

漂風子が市を散歩すると、地図を広げて数個の土人形を並べ、鞭を振るって「白河以北一山百文」と泣く売り子がいる。「儲けも出ないのにたたき売りをして号泣しても何の得にもならないだろう」と尋ねると売り子は「私は自分の儲けのために泣いているのではない、ただ土人形のために泣いているのだ」と。そこで「ならばお前はなぜ土人形のために泣くのか」と尋ねると売り子はこう話し始めた。

「私が土人形を作って地図の上に並べて売ると、上方から西に置いた土人形を買う人が非常に多い。中でも薩長土肥に至ってはその出来を問わず買ってくれるが、関東以北の土人形はほとんど売れない。しかも東北の土人形には見向きもされない。そこで私は「白河以北一山百文」と声を上げてたたき売りを始めた。そんな東北の土人形が悲しくて泣いているのだ」

これを聞いた漂風子は「治乱盛衰は天の道である。上り坂もあれば下り坂もある。諺にも楽あれば苦ありとある。だからお前ももう泣くのはやめないか」と諭した。

それを聞いた売り子は泣くのをやめ、また「白河以北一山百文」と大声を上げた。

「一山百文」が与えた影響

貨幣価値は時代によって異なるので一概には言えないが、江戸中~後期の幕府の公定レートは金1両=銀60匁=銭4,000文であり、1両が4万円~12万円だとすると、1文は10円~30円とされる[6]ことから、一山百文はあくまで例えであるとしても、想像を絶する買い叩きである。

この蔑視の意識化が、薩長が牛耳る藩閥政治打倒への強い動機づけとなって自由民権運動へと繋がり、同運動の雑誌に「白河以北~」の文言が散見されるようになる。東北の活動家達は、早い段階から同地方の団結を念頭に置き、東北の名を結社名・会議名に冠して積極的に活動を行った[7]

仙台市博物館の中武俊彦によると、明治10年~20年代には薩長政府に対し、東北人も自由民権運動という形で立ち上がり、東北対西南とも言われたが、明治30年代に入ると政府は日清戦争などもあり、大陸に近い八幡八幡製鉄所など、国家資本を西日本に投入したことで、工業化から取り残された東北はコンプレックスを抱えたのではないかと見ている[8]

当時経営難だった『東北日報』の経営を譲り受けた一力健治郎は、1897年(明治30年)、「白一山百文」にちなんで題号を河北新報に改め[2]、後に東北地方のブロック紙へと発展した。

俳句を嗜んだ岩手県出身の「平民宰相」原敬も「白河以北一山百文」にちなんで自らの俳号「一山」(いちざん)あるいは「逸山」(いつざん)と名付けた[7]

東西対立

「一山百文」と侮蔑された東北人が中央や西南への対抗を意識したような類似表現なども各所で見られた[9]

山形県米沢の『奥羽新報』は「いつの日か、『薩長人』に代わって、『奥羽人』が参議となり、東北人ではなく、西南人が「一山百文」視されるだろう」と展望していた[10]

同じ『奥羽新報』の1881年(明治14年)1月22日付(第9号)掲載記事には「東北民衆は世間から軽んじられ、自ら卑屈にも薩長人の鼻息をうかがっているが、学問に励み精を出すならば、やがて彼らに代わって天下国家を担い、「一山百文」という差別的レッテルを逆に西南人に貼り返す日も来るだろう」とも書かれている[11]

仙台の『東北新報』社長高瀬真之介(真卿)は就任挨拶で、これから「一山百文社会」の一員となって、「白川以南一山五厘ノ人物ト張リ合ントス」と述べている[10]

また、青森県弘前東奥義塾の『学友通信』には鴨川以西一山五十文」という表現が見られる[10]

昭和時代に入ると薩長閥にかわって藩閥に冷遇されていた東北出身者のいわば「奥羽閥」が軍部に君臨した[12]。元海軍大将内閣総理大臣1936年(昭和11年)の二・二六事件高橋是清らとともに殺害された内大臣斎藤実や、同じく元海軍大将・内閣総理大臣で1945年(昭和20年)8月15日太平洋戦争終戦を海軍大臣として迎えた米内光政も原敬と同郷の岩手県出身だった。

2022年令和4年)夏の全国高等学校野球選手権大会第104回、夏の甲子園)で仙台育英高校が初優勝を飾り、深紅の大優勝旗が初の「白河越え」を果たした時に号外を配布した河北新報は、東北放送[注 2]の取材に対し次のようにコメントしている[8]

「白河以北一山百文」と蔑視された東北の復権を誓い、題号を「河北」とした当社は、創刊以来「東北振興」を社是に掲げてきました。スポーツ分野の発展も大きなテーマの一つで、仙台育英の甲子園大会優勝、そして優勝旗の「白河の関」越えは、大変感慨深いものがあります。[8]

奇しくもこの時仙台育英と決勝戦を戦った相手が下関国際高校だったことから、奥羽越列藩同盟長州藩になぞらえる向きも見られた[13][注 3]

参考文献

  • 河西英通『続 東北』中央公論新社、2007年3月。ISBN 4-121-01889-3 ISBN 978-4-121-01889-2[9]
  • 河西英通『「東北」を読む』無明舎出版、2011年11月。ISBN 4-895-44551-8 ISBN 978-4-895-44551-1[9]
  • 篠田英朗日本の近代国家建設と紛争後平和構築 : 東北に着目して (平和構築としての日本の近代国家建設 : 研究序論)」『IPSHU研究報告シリーズ』第47号、広島大学平和科学研究センター、2012年5月、2-58頁。 

脚注

関連項目

外部リンク

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