堅田元慶

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時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
改名 粟屋虎菊(幼名[2]→粟屋元勝→堅田元慶→蒲庵(号)[1]
 
堅田 元慶
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 元和8年9月27日[1]1622年10月31日
改名 粟屋虎菊(幼名[2]→粟屋元勝→堅田元慶→蒲庵(号)[1]
別名 通称:弥十郎[1]
戒名 常照院殿蒲庵正圓大居士[3]
墓所 堅田家墓所(山口県周南市湯野
瑠璃光寺東京都港区東麻布
官位 主膳正[1]従五位下[1]兵部少輔[1]大和守[1]
主君 毛利輝元秀就
萩藩(長州藩)
氏族 源姓粟屋氏→源姓堅田氏
父母 父:粟屋元通[1]、母:江田元周の娘[1][4]
養父:堅田元乗?[5]
兄弟 琳誉妙栖桂就宣室)[6][7]粟屋元定[6]、女(児玉春種室)[6]元慶粟屋元宣[6]
正室:千林院益田元祥の次女)[8]
玉樹院毛利元法正室)[9]瑞松院宍道元親正室)[1]養珠院井原元良正室)[1]就政[1]直正院梨羽就云正室)[10]慈雲院毛利元包正室)[11]
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堅田 元慶(かただ もとよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将安芸国戦国大名毛利氏の家臣で、萩藩(長州藩)士。毛利輝元に抜擢された輝元出頭人の一人。父は粟屋元通。子に堅田就政

前半生

三原城跡

永禄11年(1568年)に粟屋元通の次男[注釈 1]として誕生[12]。母は宍戸氏家臣である江田元周の娘[2]幼名は「虎菊」か[2]

元服前から毛利輝元近習として召し出されて重用された[12]

天正10年(1582年1月11日に毛利輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて粟屋元勝と名乗る[13][14][15]

行政手腕に優れていたことから輝元や小早川隆景に信任を受け、子の無かった小早川隆景の養子として認められて、小早川氏家紋である左三つ巴紋を与えられたが、元慶は養子縁組については辞退した[16]。隆景の養嗣子にはならなかったものの、それ以後も隆景から寵愛を受けており、天正13年(1585年)に隆景が伊予国に移封された際には、隆景の本拠であった三原城を預けられ、隆景の家臣である田坂助右衛門を一所衆として付けられた[13][16]

天正10年(1582年)から天正13年(1585年)までの間に長門国堅田から「堅田」の名字を名乗り、堅田元慶と改名する[13]

天正13年(1585年)11月10日、毛利輝元から周防国玖珂郡山代の内の須川を知行地として与えられた[17]

輝元出頭人として

天正16年(1588年3月11日、毛利輝元が松山源次兵衛(後の三浦元忠)を使者として、椙杜上表の地を元慶に与えた[18]

同年7月、輝元に随行し上洛[13]豊臣秀吉にも気に入られて大坂城にも出仕して豊臣姓を下賜され、同年7月26日従五位下兵部少輔に叙任される厚遇を受けた[注釈 2][19][20]

また、7月28日に輝元の参議任官式が宮中で行われた際には、冠と赤装束を着用し輝元の供として従った[注釈 3]

また元慶に対する厚遇は、出仕後十年足らずの間に急速に加増された知行高からも窺われる。元慶は庶子であったため知行無しの状態から近習として輝元に仕え始めたが、天正19年(1591年)頃のものとされる「八ヶ国御時代分限帳」には元慶の所領として安芸国周防国長門国出雲国の4ヶ国に渡って7438石9升と記されている。田中誠二の研究によれば「八ヶ国御時代分限帳」に記された石高は本来の知行高の6~7割ほどにあたる年貢高であったことから、実際には1万石程度を知行していたと考えられている。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では輝元に従って朝鮮半島へ上陸し、毛利軍の一員として戦っているが、出兵準備中の同年4月に元慶の家臣2名が博多の市中の者と口論になって、最終的に博多の豪商神屋宗湛を打擲してしまうという事件が発生し、博多にいた秀吉の奉行衆がこの事件を聞きつけて騒ぎとなった。この事件に対して、輝元は先手を打って当事者である元慶の家臣2名を処分し、神屋宗湛には治療費用として見舞銀を送っている。さらに元慶が騒動に巻き込まれて秀吉奉行衆の追及を受けることを避けるために、元慶を船に隠して壱岐国へと渡海した。なお、神屋宗湛はさしたる怪我も無く、事件直後の茶会に出席している。

文禄2年(1593年)8月以降、輝元が朝鮮から帰国すると、毛利氏の中央行政は、元慶、佐世元嘉二宮就辰榎本元吉張元至の5人の輝元出頭人が担うようになった[12]。この5人は様々な出自や経歴を持つ人物たちで、出自や家格にとらわれず能力評価に基づいて人材登用を図る輝元の姿勢が窺える。

文禄年間と慶長年間始めには、輝元と共に度々上洛して取次役を務めたり、毛利氏奉行人連署奉書に加判したりする等の活動が見られる。

慶長5年(1600年)、元慶は組頭と大和守に任じられた。同年の関ヶ原の戦いにおいては、四国方面の経略を進めると共に、輝元の側近として大坂城に入って各方面へ輝元の指示を伝えており、関ヶ原での決戦の2日前である9月13日付けの、大津城攻略に手こずっていた清水景治に対して厳しい調子で責め立てる書状等が残っている[21]

江戸での証人生活

関ヶ原での敗戦後は毛利氏の防長移封に従うも、徳川家康は関ヶ原前後の元慶の行動は安国寺恵瓊と同じであるとして元慶の処刑も考えていた[22]。しかし、井伊直政本多正信榊原康政らが執り成しており、本多正信は家康に「元慶は主君である輝元の命を受けて行動しただけであって、家臣としては主命に従わざるを得なかった」と執り成している[22]。その結果、元慶は一命を助けられ、慶長6年(1601年)9月から輝元の嫡子毛利秀就と共に証人(人質)として江戸に住むこととなる[22]

輝元は福原広俊に命じて本多正信に対して、元慶を今後は特別な重臣ではなくただの一家臣として扱うので元慶を赦免してほしいと求めたが、その後元慶が死去するまでの約20年の長きに渡って赦免されることはなかった[22]。ただし、慶長8年(1603年)から元和5年(1619年)までの間に少なくとも10回ほど一時帰国が許されており、熱海に湯治に赴いたり鎌倉に出掛けたりもしている等、ある程度の自由が与えられていたようである[22]。しかし、元慶は一度帰国するとなかなか江戸に戻って来ないことがあったため、本多正信は国元にいる元慶の家族を江戸へ送ることを求めている[22]。元慶の正室・千林院は病気がちだったためか当初は江戸行きを渋っていたが、この出来事を家の大事と考えた輝元の説得により了承した[22]。指示通りに妻子を江戸に呼び寄せた元慶に対し、本多正信は「太儀苦身にて候。毛利殿家中よりは貴所一人、妻子共一円に引越し候事は、さりとてはと存じ候」と称賛している[23]

関ヶ原後の堅田家は所領を6000石ほどに削減された[注釈 4][注釈 5]が、その代わり元慶が江戸に詰めている間は軍役と普請役を減免されていた[25]

江戸にいる間の元慶は日頃から幕府年寄や譜代大名旗本らと親しく交際し、毛利家に対する心証を良くしようと努めていた[25]。輝元によれば元慶はやや気短な所があったらしく、本多正信らとの間が上手くいってるか心配しているが、元慶は正信が鷹狩に出向いている先にまで音信物を届けるなど、正信に対して細心の配慮を尽くしていた[25]。また、証人となって以後も、輝元との個人的な近さによって毛利家における一定の地位を保っており、一時帰国をした国元にいる間は、他の家臣と輝元の間の取り次ぎや、輝元の意を家中に伝える奉書への加判などを行っている[25]

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、805番目に「堅田大和守」と署名している[26]。なお、起請文に署名はあっても花押が無い人物が何人もいるが、元慶もそれに該当する。

慶長12年(1607年6月4日、毛利輝元から周防国佐波郡三田尻伊佐江塩浜を預けられる[27]。また、同年6月11日には周防国佐波郡伊佐江村210石の内の166石は一所衆の知行地として不足分を替地として宛行われる一方で、残りの44石の地を加増される[28]

慶長15年(1610年)、元慶は以前から懇意にしていた周防国山口の瑠璃光寺の元住持秀山を誘い、江戸に瑠璃光寺を創建した[25]陪臣が江戸に寺院を開いた上に長く存続したことは稀有な事例と評価されている[25]

慶長20年(1615年)4月、大坂夏の陣において毛利家も出兵要請を受けて出陣しているが、江戸に詰めている元慶は4月29日に軍役を免除されている[29]

輝元は元慶が江戸に行く当初から何度も赦免と帰国許可を願い出ていたが、元和5年(1619年)末から元和6年(1620年)初にかけて行われた交渉も不調に終わった[25]。元慶と親しく、幕府年寄への取り次ぎを行った柳生宗矩の書状によれば、土井利勝は赦免に理解を示したものの、本多正純は帰国中の毛利秀就が江戸に出府してからでなければ元慶の帰国は認められないと主張したため、帰国の願い出は認められなかったという[25]。その後、秀就が江戸に出府したが、結局元慶の帰国は実現していない[30]

晩年

元和6年(1620年)3月頃に元慶は発病し、熱海での湯治は認められたものの元慶の帰国は実現することはなかったため、元慶は自身の死を見越して身辺整理を開始し、同年末にはまだ8歳の嫡男・虎丸(後の堅田就政)を元服させた[31]

元和7年(1621年)4月、嫡男・就政が秀就に伴われて江戸城に登城し、将軍・徳川秀忠に謁見した[31]。元慶はその礼と端午祝儀のために、年寄酒井忠世をはじめとする譜代大名旗本たちの屋敷を挨拶回りをした[31]。自身の死後も家族が江戸居住を強いられることを覚悟した上で、相応の待遇が与えられることを願っての行動と考えられている[31]

さらに、同じ頃に娘たちへの財産分与を始めており、同年10月に次女のお竹(宍道元親の正室)に与えた譲り状が現存しているが、大判50枚、舅の益田元祥からの金子1枚、京都の屋敷、長崎の屋敷、銀子10貫相当の白糸、銀子50枚、諸道具をお竹に譲り渡している[31]。なお、この譲り状では、長崎の屋敷について、唐船が来航すると家賃が一段と良くなると記していることからも長崎の屋敷を借家として運用していたことが窺われる[31]。詳しい事情は不明であるが、元慶本人は江戸で証人生活を送りつつも、家臣に命じて全国で資産運用を行い、相当の財産を形成していたことが分かる[31]

元和8年(1622年)に入ると元慶の病状は悪化し、時に物事の正常な判断ができなくなるほどであった[31]。元慶の病状を心配した輝元は頻繁に見舞いの書状を送り、元慶の甥・粟屋就俊らを元慶家族の後見人として江戸に派遣するなどしていたが、元慶は同年9月27日に江戸で病死した[31]享年55[31]

元慶の墓所は山口県周南市湯野の堅田家墓所と、東京都港区の瑠璃光寺にあるが、瑠璃光寺に残る宝篋印塔には「芸州住堅田大和守」の文字が刻まれており[3]、元慶の自己認識は最後まで安芸国の住人であったことが窺われる[31]

没後

元慶の死の7日後の同年10月5日、元慶の訃報がまだ輝元のもとには届いていなかったため、輝元は病床の元慶と堅田家のことについて指示を出しており、長く病を患っている元慶がたとえこのまま快復しなかったとしても、嫡男の就政を変わらず取り立てるつもりであること、元慶が病のうちは諸事を元慶の正室・千林院と後見人である元慶の甥・粟屋就俊に申し付けること、国元と江戸にある元慶の所帯のことについては当分は益田元祥と粟屋就俊が改めるよう申し付けたことを国元と江戸にいる者たちに言い聞かせるように、元慶の一所衆である田坂助右衛門永末三郎兵衛粟屋次郎左衛門三戸元次中村藤左衛門河内五郎兵衛に命じている[32]

元和9年(1623年1月19日、嫡男・就政が家督と6536石の知行地を相続することを輝元・秀就父子に認められ[33]、同年4月には就政が再び秀就に連れられて将軍・秀忠に謁見し、江戸に住まわされていた元慶の家族の帰国が許された[31]

その後に就政は、まだ幼少であったためか寛永2年(1625年8月13日に所領を周防国都濃郡戸田村2163石5斗4升7合、湯野村1467石4斗6升6合、莇地村291石2斗8升8合、長門国大津郡日置村577石6斗9升9合の合計4500石に減転封され[34]、周防国都濃郡湯野[注釈 6]に移住した。子孫は同地で明治維新を迎えている。

肖像画

享保5年(1720年)、元慶の曽孫にあたる堅田広慶は翌年に控えた元慶の百回忌に備えて元慶の肖像画を製作した[35]。絹本著色で描かれた肖像画の寸法は縦76cm、横40cmで、元慶が天正16年(1588年)に毛利輝元に従って上洛して宮中に参内した際の冠と赤装束を着用した姿で描かれており、赤装束には小早川隆景から与えられた左三つ巴紋が散りばめられている[36]。また、同年9月27日に萩藩主・毛利家の墓所がある天樹院の僧侶・揚州聖南が元慶の肖像画に画賛を記した[37]

享保6年(1721年)には堅田広慶が元慶の肖像画を江戸の瑠璃光寺に納置し、同年6月6日に瑠璃光寺の住持である睦宗が広慶に対して請状を送っている[38]

なお、元慶の肖像画は、元慶関連の史料がまとめられた『大日本史料 第十二編之五十九』に収録された「第十二編之四十八」の補遺で掲載されており、2009年時点での保管者は佐伯隆と記されている[36]

系譜

脚注

参考資料

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