石川氏 (伊予国)

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家祖 石川入道
種別 武家
石川氏
(家紋)
本姓 河内源氏源義家流?
家祖 石川入道
種別 武家
出身地 河内国石川郡石川荘
主な根拠地 伊予国新居郡高峠城
著名な人物 石川通昌
石川通清
石川勝重
石川虎竹
凡例 / Category:日本の氏族

石川氏(いしかわし)は、伊予国新居郡宇摩郡武家伊予石川氏とも。本姓河内源氏とされる。家紋は飛び鶴。南北朝時代から戦国時代にかけて、細川氏の被官として、また四国の有力武家として活躍した。

石川氏の系図は伝わらないため正確な系図は不明であるが、河内源氏流で源義家の子・源義時の末裔の石川源氏であるとされる[1]

伊予石川氏や備中石川氏の祖と考えられる中で最も古くに確認できるのは、伊予国新居郡代官の石川入道浄珎である。康応元年(1389年)10月に、3年後に備中守護となる細川満之が伊予保国寺領に対する違乱について、石川浄珎に指示を出している。保国寺は現在の西条市、かつての新居郡に属している。満之はこの時期、伊予国新居郡の分郡守護であった、もしくは分郡守護的立場であったと考えられる。この文書から、石川氏はその守護代もしくは守護代的な立場ととらえることができる。少なくとも、後の備中守護家細川氏と石川氏との主従関係をうかがわせている[1]

次に確認できるのは、浄珎の子と見られる石河入道浄志である。応永4年(1396年)の史料には「守護代官石河」と記され、前年2月付けで石河入道浄志の差し出した請文が残されている。これは醍醐寺讃岐国長尾荘の年貢を石河浄志が請け負った時のものである。讃岐国は細川本家管領家が代々守護を務めており(この時期は細川頼元が守護)、その守護代を石川氏が務めていたことが分かる。

石川氏は次に備中国において確認できる。詳しい経緯は不明だが、細川氏の備中守護獲得と同時期であるとされる。いわゆる備中守護家の細川満之の系統が備中守護となるのは明徳4年(1393年)の半ばごろであり、石川氏もその時期に備中へ移動したと見られ、備中では讃岐の安富氏も活動していることから、石川氏が細川氏の家臣として讃岐から移動した可能性が考えられる。備中国入部当初から、守護細川氏のもとで庄氏とともに守護代に就任し、国内統治に当たった。備中に関する石川氏の名前が初めて史料に見えるのは、応永6年(1399年)7月のことである。備中国薗東荘(現、真備町)に荘園領主である京都梅津の長福寺から管理人として注主がやってくるので、荘園の管理をさせるようにとの伝達が、守護・細川満之の奉行人・薬師寺永可から石川・庄2人の守護代に伝えられている。守護代石川氏の就任当初の史料は、現状上記のものしか確認されておらず、不明な部分が多い[1]

次に確認できるのは、石川四郎左衛門入道である。応永17年(1410年)10月に、和泉守護・細川満久の守護代である斎藤玄霖から石川四郎左衛門入道が命令を受けており、守護代ではないものの石川氏が和泉守護細川氏の配下に入っていることが分かる[1]

備中国へと移った石川氏は、吉備津神社の社務代となった。吉備津神社本殿の国宝に指定されている吉備津神社本造営と社務代石川氏殿は、棟札写等から応永32年(1425年)に造営が竣工したと考えられている。遺営の経緯としては、明徳年間に「柱立」を行い、契約したのではないかと考えられる。その際、浄志の子と見られる石河源左衛門尉満経(のちに豊後守、豊後入道、豊前入道、沙弥道寿とも)ら両守護代は社務代として請文を作成している。これによれば、当時京都の仁和寺領であった吉備津宮が毎年500貫文を領主仁和寺に納入していた年貢を、守護が請け負ったと見られる。また竣工の時期には、社務はおそらく備中守護・細川頼重が務め、棟札には社務代として守護代の石川道寿と庄道充の名が記されている[注釈 1][1]。道寿は永享6年(1434年)に「伊予保国寺文書」にも名前が見え、備中と伊予の両方で活動していたことがわかる[2]

文安2年(1445年)から翌3年にかけては、石川源三氏経が『新善光寺文書』や『和簡礼経』に見える。

宝徳2年(1450年)には、石川備前入道昌秀や石川道寿が『九条家文書』に見え、石川掃部助久経が『塚本文書』に見える。久経は道寿の直系の後継者ではなく、備中浅口郡や伊予宇摩郡を領した細川満国の家臣であったと考えられる[3]

長禄3年(1459年)から翌4年にかけては、備中守護・細川氏久やその子・細川勝久から石川源三経郷に書状が送られている(『石清水八幡宮文書』『天龍寺文書』)。経郷は「石川左近将監」を名乗り寛正5年(1464年)まで活躍が確認できる(『東寺百合文書』)。

文明11年(1479年)には、石川源三天竺氏俊とともに『東寺百合文書』に名前を残している。

蔭凉軒日録』によると、文明18年(1486年)には、備中守護・細川勝久の被官・石川左京進が、代官にならんと欲し、京都の相国寺領の川辺荘へ侵入した。「飯尾文書」によると、細川成之の被官・上野肥前守と争い、幕府によって左京進の意見が退けられたという。また延徳3年(1491年)にも石川左京進が再び川辺荘へ侵入した。同年6月には左京進は討ち死にした[1]

延徳4年(1492年)には、石川源左衛門尉久成(久式とも)の名前が『天龍寺文書』の中に見える。

永正4年(1507年)には、明応の政変で放逐され、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義稙が将軍職への復帰を目論んで挙兵した。『隠徳太平記』によれば、備中の左衛門尉久次(源左衛門尉とも)が従ったという。また、備中守護・細川政春死後の永正期の混乱においては、浅口郡代官系の幸山城主・石川備中守通経伊予国に避難したとされる[1]。通経は享禄3年(1530年)に吉備津神社に棟札を残している。

概要

澄水記』や『天正陣実録』によれば、大永2年(1522年)に、備中国幸山城主・石川左衛門尉(石川家久か)の子である石川虎之助伊予国新居郡の高峠城に移り、新居郡宇摩郡の領主となり、のちに石川伊予守と名乗ったという。これは、備中国の石川氏が細川氏の代官であったことと、新居郡が細川氏の領地であったことが関係していると考えられている[4]。ただし、大永の頃の石川左衛門尉は、吉備津神社の文書によると、天文11年(1542年)に病没し、その子・石川三郎五郎が家を継いでることは明らかであるが、その外に虎之助という人の存在を確認できる資料は今現在見つかっていない。

小松邑志』によると、享禄年間(1528年1532年)に、石川氏と剣山城黒川氏との間に合戦があったとしており、石川氏側の大将は石川六郎であったという。また、『愛媛県史』史料編には、享禄2年2月10付の石川虎胤感状が収録されている。天文7年(1538年)12月12日付の文書では、備中国から迎えた石川伊予守の家臣・石川源太夫が確認できる。

伊予国の金子文書には、天文20年(1551年)に高峠城主として石川備中守通昌が見える。この通昌は、備中石川氏の石川家久あるいは石川通経の子とする説がある。また、文書に年号がないものの、元亀年間以後のものと思われる文書に石川備中守勝重の名前が見え、通昌の子とする説がある。永禄3年(1560年)8月14日には、石川彦三が金子十郎へと書状を出している。

天正陣実録』などによると、石川備中守通清が高峠城にいたという。通清は、別名を四郎虎武といい、弘治2年(1556年)1月29日に金子十郎に対して書状を送っている。また永禄2年(1559年)12月26日には保国寺の禁制を出している。弘治年間に三好氏の娘を娶った。『澄水記』によると轆城主で三好氏縁者の大西道誉(大西元武か)によって婚姻が斡旋されたという[5]。一方、『みよしき』によると、大西覚用は小笠原喜雲(三好之長のことだが時代が合わないため実際は三好元長を指すと考えられる)の婿となって大西寄竹伊予真辺氏・伊予の石川氏の3人の子がいたとある[6]。三好氏の娘を娶った、あるいは母としたことで三好氏に接近し、元亀3年(1572年)に三好長慶が伊予に攻め込むと案内役を務めた。三好氏が伊予から去ると、河野氏の侵攻を受け降伏するも、天正10年(1582年7月16日に今度は長宗我部元親に攻められ、降伏した[7]高尾城の戦い)。天正12年(1584年10月17日に50歳で病没した。保国寺には通清の墓と言伝えられる墓がある。なお、阿波国名東郡一楽(現・徳島県石井町市楽)には一楽城があり、石川六之進源吉竹(道義)が城主であった。吉竹は河内国石川郡出身の清和源氏(家紋は鷹ノ羽で小笠原氏流とする資料もある)であり、永禄年間に伊予国から阿波国に移住して三好氏に仕え、三十貫の禄を賜っていた。天正10年(1582年)8月28日の中富川の戦い十河存保に従い長宗我部元親と戦って戦死した。石井町の石川神社に霊が祀られている[8]

『澄水記』によれば、天正13年(1585年)の天正の陣の際の石川氏の当主は、当時7歳で石川勝重の子・石川虎竹であり、近藤尚盛と義理の大叔父(虎竹の祖父(通清あるいは通昌)の娘婿、諸説あり)の金子元宅が後見者であった。虎竹の母は香宗我部親泰の娘であった。元宅は虎竹を擁して奮戦し、虎竹を土佐に逃すことに成功した。虎竹は、落城以前に譜代恩顧の侍7、8人と共に、城の背後から市倉に出て、ここで旅装を整え、桜ヶ峠から桑瀬越えをして土佐路に入ったと伝えられ、後年土佐山内氏の配下に加わったという説もあるが、これらは語り伝えられるだけで、明らかではない。通清には娘が4人いて、金子備後守元宅、松木新之、宇高佐馬之佐にそれぞれ嫁ぎ、残る1人は敗戦混乱の際に河端甚左衛門という者が奪い取って土佐に逃れたという。なお、父の石川勝重は元宅と共に戦死したとされる。

歴史

推定系図

脚注

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