神戸正雄
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1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる[1]。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業[1]、同大学大学院(財政学専攻)卒業。
1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任[1]。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。もともと誰に対しても温厚であったが、とてもユーモアを好む人物ではあり、それは留学により身につけたダンディズムと融合し彼の生徒や各方面の著名人に慕われた。[要出典]
帰国後の1907年(明治40年)京都帝国大学法科大学教授に就任[1]。1908年(明治41年)31歳で法学博士号を取得[1]。清国とヨーロッパにて学術調査を実施。1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学長(現在の法学部長に当たる)に就任。1919年(大正8年)経済学部を法学部から独立させ同学部の教授となる。経済学者としては、現在採用されているような諸政策を中央集権が強固だった当時から既に提唱している。主なものを以下に挙げると、
- 地方自治権
- 現在のアメリカ合衆国の連邦州制度に似ており州単位に完全独立し、財源は政府を経由せず自治体単位で自給するという。
- 消費税(租税論)
- 地税、所得税を抑え出費の多い富裕層からの税収を促進、お金を使えない貧困層の負担を軽減するという。
- 地方自治体による公営ギャンブル
- 公営墓地計画(宗教不問の墓地)
- 当時はまだ根強く土葬の習慣があり都市の利用可能土地萎縮を懸念。また、墓地の全市民平等化促進、火葬促進など。
1921年(大正10年)経済学部長に就任。1928年(昭和3年)『租税研究』によって帝国学士院恩賜賞受賞[1]。1930年(昭和5年)に帝国学士院会員となる[1]。1937年(昭和12年)京都帝国大学を定年退職[1]、名誉教授[1]。同年関西大学学長に就任[1]、1940年教育功労者表彰[1]。1944年(昭和19年)関西大学学長を退任[1]。
1947年(昭和22年)、第二次世界大戦後の第一回目となる全国知事市長公選において、京都市長に立候補・当選する[1]。在任中には第2代全国市長会長にも就任[1]。 1949年(昭和24年)2月11日、神戸を含む日本学士院のメンバー9人が皇居に招かれ、昭和天皇の御陪食を賜る。陪食後のお茶の席で、租税の公平について奏上する機会を得る[4]。1950年(昭和25年)に地方行政調査委員会議議長に就任するため市長を辞任[1]。辞任に際しては、「既に老齢で自分の理想とする市政の10分の1もできなかった」と家族に悔しさを漏らしている。しかしながら、ハイデルベルクのような学術都市思想や古い街をそのまま観光資源と捉え、京都独特の町人の互助風習を市政に利用する努力もし、結果として早くから福祉の進んだ都市とするなど、戦後の京都市政の基礎を作り上げた功績は否定できない。[独自研究?]
市長引退後は執筆活動や関西大学顧問として晩年を過ごし、1953年(昭和28年)に文化功労者[1]。1959年10月、82歳で没す。死後は市長時代に建造した無宗教市営墓地(京都深草)に埋葬された。この墓地は墓標のないコンクリート多層構造(蚕だな型)で、当時の人々からは理解不能な素っ気ない墓であった。そこでまず自分(知名度のある者)が真っ先に入り理解を得るとして完成前に購入し、生前に公表していた。[要出典]