秋山和慶
日本の指揮者 (1941–2025)
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人物・来歴
生い立ちから桐朋学園大学卒業まで
商社に勤める父・友一の長男として東京都品川区荏原で出生[5]。母・美弥子は宮崎県生まれ、東京音楽学校師範科出身のピアニストであった[6]。父が学んだ青山学院に入学し青山学院初等部、青山学院中等部、桐朋女子高等学校音楽科[注釈 3]を経て、桐朋学園大学音楽学部卒業[7][8]。
指揮法を齋藤秀雄、ピアノを井口秋子、ホルンを千葉馨、打楽器を岩城宏之に師事[9]。「齋藤メソッド」(指揮法)の継承者であり、小澤征爾、山本直純らと共に齋藤秀雄の門下生。齋藤の下で厳しい指導を受ける。
指揮者デビューと海外での演奏活動
1964年に東京交響楽団を指揮してデビュー[7]。大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者、カナダのトロント交響楽団副指揮者を経て、1972年から1985年までバンクーバー交響楽団音楽監督(現桂冠指揮者)[1]。1973年から1978年までアメリカ交響楽団音楽監督[1][10]、1985年から1993年までシラキュース交響楽団[注釈 4]音楽監督[1]及び名誉指揮者[5]を務める。
クリーヴランド管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、シカゴ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、ボストン交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニック、サンフランシスコ交響楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、ケルン放送交響楽団、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団、スイス・ロマンド管弦楽団、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団など、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどのオーケストラに多数客演[7][12]。
日本での演奏活動
1963年から東京交響楽団専属指揮者[5]、1968年から2004年まで同楽団音楽監督・常任指揮者[1]として40年間にわたり東京交響楽団の指揮者を務め、2004年からは桂冠指揮者[13]。1967年から大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者、1986年から1994年まで同楽団首席指揮者[5]。1988年から1998年まで札幌交響楽団ミュージック・アドバイザー・首席指揮者[14]。1998年から広島交響楽団首席指揮者・ミュージックアドバイザー、2004年から2017年まで同楽団音楽監督・常任指揮者[5](現永久桂冠名誉指揮者)。2004年から2013年まで九州交響楽団ミュージックアドバイザー・首席指揮者(現桂冠指揮者)[5]を務めた。NHK交響楽団での指揮も多い[15]。
2010年から2025年まで中部フィルハーモニー交響楽団芸術監督・首席指揮者[5][16](現名誉芸術監督)。2020年から2025年まで日本センチュリー交響楽団ミュージックアドバイザー[17][18](現名誉ミュージックアドバイザー)、2022年から2025年まで岡山フィルハーモニック管弦楽団ミュージックアドバイザー[19](現名誉ミュージックアドバイザー)を務める。吹奏楽にも造詣が深く、2003年からOsaka Shion Wind Orchestra芸術顧問を務めている[5][20]。
2014年に指揮者生活50年を迎え、回想録「ところで、きょう指揮したのは?」 (共著/アルテスパブリッシング刊)を翌2015年に出版[7]。2024年には指揮者生活60年を迎え、記念公演(東京交響楽団第724回定期演奏会)を指揮する[21][22]。
2025年1月23日、指揮活動からの引退が所属事務所を通じて家族より発表された[23][24]。1月1日に自宅で転倒して頚椎を損傷[23][24]、当初は8月に復帰予定だった[23]が手足に後遺症が残り、家族と話し合った結果、今後の活動は困難と判断し引退を決めたという[23][24]。
斎藤メソッド
1984年には、恩師・斎藤秀雄を偲んで小澤征爾と共に「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を開催。このコンサートがサイトウ・キネン・オーケストラの発足につながる[25]。
1969年に洗足学園大学(現:洗足学園音楽大学)音楽学部客員教授、1989年に同大学専任教授 兼 附属指揮研究所長に就任。2011年に洗足学園音楽大学特別教授 兼 芸術監督[26]に就任。斎藤メソッドの後進指導にもあたっており、指揮法やオーケストラについて解説したDVDにも出演している(ビクター・エンタテインメント)。
2012年6月より日本指揮者協会第5代会長[27]を務める。
死去
2025年1月26日午後10時57分、肺炎のため入院先の東京都内の病院で死去[2][28][29]。84歳没。没後、東京交響楽団や広島交響楽団など関係の深かった楽団から、追悼のコメントが公式サイトより発表された[30][31][32]。
受賞・栄典
エピソード
東京交響楽団との長年にわたる関係(楽団の経営破綻から再建・復活と挑戦)
- 東京交響楽団でデビューしたわずか1カ月半後に楽団の解散が発表され、団員たちと自主運営で活動を再開、毎日が練習、本番のきついスケジュールをこなした[37](1カ月に32回公演したこともあったという[38])。
- 東響に出演機会を与えるためにスタートした音楽番組「題名のない音楽会」に数多く出演した[39]。
- 東響が1980年に再建を果たした後、シェーンベルクの「グレの歌」、歌劇「モーゼとアロン」などの大作を指揮、ラッヘンマンの歌劇「マッチ売りの少女」などの日本初演を行い成功を収めた[40]。
- 東響との共演は、生涯最後の公演となる2024年12月31日の「MUZAジルベスターコンサート2024」[2][30]まで1350回以上に及んだ[30]。