秋山駿

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生誕 秋山 駿(すすむ)
(1930-04-23) 1930年4月23日
日本の旗 日本東京都豊島区
死没 (2013-10-02) 2013年10月2日(83歳没)
日本の旗 日本東京都西東京市
出身校 早稲田大学文学部仏文科
あきやま しゅん
秋山 駿
生誕 秋山 駿(すすむ)
(1930-04-23) 1930年4月23日
日本の旗 日本東京都豊島区
死没 (2013-10-02) 2013年10月2日(83歳没)
日本の旗 日本東京都西東京市
出身校 早稲田大学文学部仏文科
職業 文芸評論家大学教授著作家
影響を受けたもの 田山花袋志賀直哉嘉村礒多小林秀雄中原中也
プルタルコスルネ・デカルトスタンダールフョードル・ドストエフスキーアルチュール・ランボーポール・ヴァレリー
影響を与えたもの 柄谷行人中上健次井口時男富岡幸一郎
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秋山 駿(あきやま しゅん、1930年昭和5年〉4月23日[1] - 2013年平成25年〉10月2日[1])は、日本の文芸評論家日本藝術院会員。位階従四位。本名は駿(すすむ)[1]

幼少期から敗戦、文学との出会い

東京府池袋出身[1]旧制東京都立第十中学校(現・東京都立西高等学校)を経て[1]、1948年に旧制第二早稲田高等学院入学[1]、翌年学制改革により新制早稲田大学第一文学部仏文科に移り[1]、1953年に卒業する[1]。1956年6月、報知新聞社に入社[1]。1960年「小林秀雄」で『群像』第3回新人文学賞評論部門受賞[1]。評論「内部の人間」「想像する自由」(いずれも1963年発表)などを、久保田正文三島由紀夫に激賞された[1][2]。1979年から1993年まで東京農工大学教授[1]、1997年から武蔵野女子短期大学武蔵野女子大学教授[1]。1997年12月に日本芸術院会員[3]。2001年同大学を定年退職[1]。2002年客員教授を務めた[1]。2004年11月、旭日中綬章を受章[1]。2013年10月2日に食道がんのため死去[4]。83歳没。

石ころ」が秋山駿の批評のキーワードだと言われる[要出典]。目の前の石ころから発想するのである[2]群像新人賞を受賞したが、以後三年間低迷する。『群像』が批評を掲載してくれないので、もう一度新人賞に応募しようとして止められたという。内向の世代の同伴者的批評家として出発する。[要出典]

1930年4月23日、東京都池袋に生まれる[3]。父・登利男は鉄道省に勤める官吏、母・照子は信州須坂市の浄運寺の三女[3]。6歳のときに中耳炎の手術を受けて以来、右耳が聴こえなくなる[3][5]

1943年、母・照子が結核による脳膜炎で亡くなる[6]。翌年、父・登利男は継母・千賀子と結婚[3]。1945年、勤労動員先の三鷹の軍需工場(日本無線)で玉音放送を聴き、終戦を迎える[3][7]。秋山はこの頃を「母が死に、次いで敗戦がやってきて、私の内部で一切の根柢が覆った」と回顧している[8][注釈 1]

終戦後、17歳の夏ごろに『中原中也詩集』、ランボー『地獄の季節』(小林秀雄訳)と出会う。

学生、浪人時代

大学三年生の時に最初のエッセイ「石塊にはひとつの物語がある」(1952年)を同人誌『批評派』に掲載する[3][注釈 2]。秋山にとって、このエッセイは「恋愛というものを、心の内部で絞め殺してしまったことについての一つの記念だった」[9]

早稲田大学を卒業後、秋山は職に就かずに三年間「昼間はひとりで街を歩き回り、夜は目の前の壁の汚点と対話するのが日課」であるような日々を送る[3][注釈 3]

就職、『群像』新人文学賞

1956年3月、「H社」の試験を補欠で合格[10]。6月に報知新聞社に文化部記者として入社する。入社の直前に、秋山は自身のノートに次のような言葉を記した[11]

私のような人間が生まれてはいけない。

社会的に生活してはいけない。

まして、会社へ勤めてはいけない。[10]

入社してから二年後、文化部が廃止されたため秋山は整理部に異動する[3]。秋山は整理部の仕事を「言葉と、活字という物質と時間だけが相手の奇妙に孤独な職業」「機械的で単調な仕事」だと紹介していた[12]

1960年、「小林秀雄」で第三回『群像』新人文学賞評論部門を受賞する[注釈 4]。選考委員は伊藤整大岡昇平中村光夫平野謙の四名[13]。選評では、伊藤、平野らは秋山の読み方・書き方が細心であると評価する一方、中村は内容の実証性のなさを指摘し、大岡は「小林に惚れこんだばっかりに、その台詞をつかっている」が「ただの形容」に終わっていると評した[13][注釈 5]

新人賞を受賞したものの、それから秋山は三年ほど低迷する[3]。秋山によれば、受賞論文は、秋山の文章を文芸批評として認めない同人仲間に対して、自分は彼らのいう文芸批評らしい文章を書くことができることを示すための「面当て」として応募したものだった[14]。そのため、「自分にふさわしいことをしたとは思っていない」以上、同様の文芸批評を書こうとしなかったのだと説明している[15]

文壇での活動、「内向の世代」

秋山は小松川高校事件を論じた「想像する自由」(1963)を発表する[注釈 6]。この文章が久保田正文三島由紀夫の目に留まる[3]。以降、「文芸誌への登場の道が開け」てから[15]、中原中也論や時代小説論などを発表[3]。1967年には第一評論集『内部の人間』を刊行する[3]。1968年から翌年にかけて「三田文学」でインタビュー「私の文学を語る」を連載。秋山は、当時編集長だった遠藤周作に命じられて、江藤淳大江健三郎石原慎太郎など当時文壇で活躍していた作家たち16名を相手にインタビュアーを務めた[16]

1971年3月、小田切秀雄は当時の日本の新人作家たちを「内向の世代」と名づけて批判的に論じた[17]。その代表的な人物として挙げられた古井由吉たち小説家や川村二郎たち批評家のなかに、秋山の名前も含まれていた[18]。秋山は「内向の世代」という括りを受け入れながら、当時「内向の世代」を代表する小説に向けられていた「社会的な関心が欠如している」「小説としてわからない」という非難に対して擁護を試みた[19]

退職から平成以後

1970年11月の三島由紀夫の自決をきっかけにその翌月に報知新聞社を退職[3][20][注釈 7]。以後、文筆業を専業とするほか、日本大学芸術学部('71~'79年)、早稲田大学文学部('72~'79年)で非常勤講師を務めたのち、東京農工大学一般教養部の教授に就任('79~'93年)[3][注釈 8]

『恋愛の発見』(1987)で秋山は、恋愛は犯罪に似ており、いずれも「おれは、こうする」という自分勝手な行為であり学校的な知性では計れないものだと論じた[21][注釈 9]

1996年に『信長』を刊行(連載は'93~'95年)。野間文芸賞毎日出版文化賞を受賞する[3]。ベストセラーになった。

東京農工大学を退任後、法政大学の非常勤講師('95~'96年)を務めたのち、武蔵野女子大学(当時)文学部日本文学科の教授に就任('97~'01年、客員教授として'02~'06年)[3]。そのほか、よみうり文化センター・朝日カルチャーセンターの講師を務めた[3]

大病を患ったがそこから復活し、晩年は『私小説という人生』で、改めて私小説を擁護し、話題となった。[要出典]

瀬戸内寂聴渡辺淳一など、通俗作家としてあまり文芸評論家が論じない作家を積極的に評価した。早くから時代小説家では、藤沢周平宮城谷昌光を評価した(『時代小説礼賛』[要ページ番号]より)。

「法子の病気」、死去

2009年から『群像』で「「生」の日ばかり」の連載を開始。自省的なエッセイや文学作品の感想に加えて、帯状疱疹後神経痛を患う妻・法子の病状と療養の様子を記すようになる[22]。80歳近い秋山は、以下のようにこれまでの自分の考え方に疑念を抱くようになるものの、「これからすべてを新しく考え始めなければならぬ、と思う一方、そんなことは絶対に不可能だ、とも思う」と記している[23]

 わたしは、人間とは何か、生とは何か、と探求するときは、いつも、一人の人間、ということを基本にして考えてきた。[…]ところが、この四年半ばかり、妻・法子の帯状疱疹後の肋間神経痛による、痛い、痛い、という声を毎日聴いているうちに、自分が慣れ親しんできた思考と、法子と二人で居る現状との間に、なんだか透き間があって、思考と現実とがぴったりしない。それどころか強い違和感が発生する、と感ずるようになった。/[…]わたしは思わず、自分がずっと長い間、間違いを冒しながら生きてきたのではないかと心配になった。/なぜなら、人間とは何か、人生とは何かと探求するのなら、一人の人間という基本から考えるよりも、「男と女が二人で居る」というそこから考え始める方が、より現実的であり、実際的であり、生活に密着した思考の展開になるのではあるまいか。[23]

2013年10月2日、食道がんのため死去[3]。法名は駿法院向譽思石照文居士[24]

主題・作品

内部の人間

秋山は、ある「特別な生存の形式」をもつ人間を「内部の人間」と呼んだ[25]。この「内部の人間」の代表的なモデルとして挙げられる人物は、中原中也、イッポリート、李珍宇の三人である[26]

小松川高校事件

1958年9月、江戸川区都立小松川高校の屋上で女子生徒を殺害したとして李珍宇(当時18歳)が逮捕される。逮捕後、李は同年4月にも自宅近辺で女性を殺害していたことを自供した(小松川高校事件と賄い婦殺し)。1962年8月、当時 李の救命運動を行う雑誌記者であった朴寿南は、李との書簡の一部を『婦人公論』に発表。李の死刑の執行後、1963年に書簡集『罪と死と愛と』が出版される。この書簡の中で李は、自身の犯した殺人の罪に「何の後悔も感じてはいなかった」と語っている[27]

私の頭にいつも残っていた問題は、体験が「夢」のように感じられることだった。若しも私たちが何か或ることをして、それが過去になると同時に「夢のように」感じるとしたら、それに対して何か現実的な感情を持てと云われても困ってしまうにちがいない。/たとえば何の罪もないのに罪悪感を強く持ったり、反対に罪の意識を持っているにもかかわらず、罪の感情は持っていない場合が、私の云う問題に近いといえるだろう。[28]

こうした李の言動について、秋山はこれは「内部の人間の犯罪」の特徴であるとした[29][注釈 10]

団地での生活

1959年5月、秋山は妻・秋山法子とひばりが丘団地に入居する[3][30]。秋山は、団地での生活について、敗戦時の少年だったときの「生の感情」に似合うから団地特有の生活意識が気に入ったのだと語っている[31]

団地というこの様式は、家ではない。それはコンクリートの箱である。この場処は、一人の人間が生涯の思い出を抱きながらその生を完了させていく処でもなければ、幾多の秘密や隠れ家に取り巻かれながらその生を成長させていくための場でもない。これは、やがてただ人がそこを通過してしまうための、単なる居住の場面である。[…]/にもかかわらず、私はこの団地の居住が気に入っている。それは、普通にいう人間らしい生活の場ではないかも知れないが、ひょっとしたら、私が長い間密かにその実行を企図していたところのもの――簡単な生活ということの、いわばレッスンに好適なのである。[32]

1974年から1993年まで、『週刊読書人』に年に一度の連載エッセイ「団地通信」を掲載[3][33]。団地での生活のようすとともに、1970年代のオイルショックからはじまり、1980年代のマイホーム主義中流意識東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件昭和天皇崩御にいたるまでの日本社会の潮流や事件について時評を記している[34][35]。2001年には近辺の都市公団(都市再生機構)の賃貸団地に転居[3]

評価

  • 中上健次は、共同討議「戦後文学の「内部」と「外部」」(1985)のなかで、かつては秋山の「忠実な読者」だったと発言している。また、次第に人間中心主義・文学中心主義的な傾向が強まったとして、その変化に不満を表してもいる[36]。これに対して中野孝次は、秋山は文学作品や団地での生活に対して今も同じように考えているのであって、したがって中上のいうような変化はなく、不満を抱くのは親切に読まないからだと擁護している[36]
  • 『近代日本の批評 昭和篇(下)』(1991)では「内向の世代」の批評家として紹介されている。蓮實重彦は、秋山の批評が中上健次の初期作品に一定の影響を与えているとの見方を示しているほか、秋山を「愚鈍の人」と特徴づけ、それが徹底的でない点が惜しいと評する[37]三浦雅士は秋山を「批評家というよりむしろ詩人」であると述べており、浅田彰は長年の著述のなかで「石ころ」がフェティッシュなものへと変化してしまっているとコメントしている[37]
  • 上記の共同討議のなかで、自身も「内向の世代」の一人として数えられた柄谷行人は、1960年代後半における秋山の思索の「単独性」が非常に好きだったとして、「ぼくが六〇年代で実存主義的だと思うのは、秋山だけです」と語っている[37]。また、秋山本人との対談では「六〇年代に自分がジャーナリズムにおいてものを書き出す以前に、ぼくが最も意識していた批評家は秋山駿だった」と話している[38]
  • 井口時男は、小林秀雄から批評を読みはじめてドストエフスキーの流れをたどるなかで秋山の批評に触れたと語っている[39]。秋山に対する井口の評価は逆説的なものであり、「どこを開いても同じ「単音」だけが響いている」ような「無益な」秋山の著作からは知識や教養を学ぶことはできないとしながら、しかしそれは当時の時代状況に照らしても「ラディカルな批評」であるという[39][40]。 のちに井口は、2006年から2009年にかけて「少年殺人者考」と題した連載で、秋山が論じた小松川高校事件(1958)から、執筆の最中に起こった秋葉原連続通り魔事件(2008)に至るまでの戦後日本の青少年の犯罪を主題として論じた[41]。同時期に井口は、犯罪者にまつわる秋山のエッセイをまとめた『内部の人間の犯罪 秋山駿評論集』(2007、講談社文芸文庫)の企画・編集に携わっている[42]

批判

『恋愛の発見 現代文学の原像』に対する批判

『恋愛の発見』(1987)で秋山は、恋愛は犯罪に似ており、いずれも「おれは、こうする」という自分勝手な行為であり学校的な知性では計れないものだと論じた[21]

ある人が、突然不意に、俺にはお前が必要だと言って、見えない手を伸ばして相手と握手しようとする。それが恋愛です。こちらは、ある時不意に、非常に自分勝手に、俺にはあいつが必要だと言って、見えない手を伸ばして相手の首を締める。これが理由なき殺人です。この二つは極度に似ているし、同じ一つの根柢から発しているように見える。[43]

『恋愛小説の陥穽』(1991)で三枝和子は、男性の意識における恋愛を説明するものとして上記の箇所を引用している。三枝は、これを踏まえて、反対に女性作家は「私はあなたに必要とされている」という受け身の意識を強調することが多く、そこには男性が言うような「恋愛」の意識はないとする[44]。この意味のかぎりにおいて「女性の作家には恋愛小説が書けないのではないか」という見解を三枝は提示した[44]

三枝の議論を受けて、斎藤美奈子は、男性作家は秋山のいう一方的な所有欲を描いた「恋愛感情小説」を書く傾向があるのに対して、女性作家はその所有欲から逃れようする「恋愛関係小説」を書く傾向にあるとした[45]

また、上野千鶴子は同書における秋山の恋愛観を次のように批判した。

女のつごうを問題にしない、女が読んだらどう思うだろうということに対する想像力が彼にはない。[…]そういう恋愛観それ自体の持っている歴史性とか、あるいは社会的な限界を彼は少しも問題としない。経験の切実さに目を奪われて、当事他者の目から見て自己の経験を相対化するという作業を何一つしない。あの傲慢さのことを男性性と言うのよ。それを三枝さんは的確に指摘している[46]

私小説性に対する批判

イルメラ・日地谷・キルシュネライトは、『私小説 自己暴露の儀式』(1981)のなかで、秋山のエッセイ「簡単な生活」を、「私小説のディスクールに使われるほとんどすべての要素がレパートリーに入っているのがわかる」として引用し、次のように評した[47]

このエッセイを読むと、私小説の根本思想、指導理念、そして構想原理の総括であるかのようだ、「書きたがる病」、芸術理論の自己表現的な側面、自己中心主義、自動筆記性、反知性主義的態度、経験主義、これらすべてがある。また、〈まこと-原則〉、芝居性、大雑把な似非概念の多用、社会と歴史に対する拒否、自然か社会かという二者択一、そしてこの二者択一を直接的な身辺へと矮小化すること、これらもはっきり出ている。[47] 

芸術院会員任命に対する批判

1997年12月15日、秋山は日本芸術院の会員に任命される[3][48]。このことについて絓秀実は、「彼[=秋山]には政治的な立場なんかないんだろう」としつつ、秋山が私淑していた大岡昇平は芸術院の推薦を辞退した点に触れながら「勲章を石ころとか言ってた人が天皇からそれをもらって、さらには恩給をもらう」のは異様なことだとして批判した[49][注釈 11][注釈 12]

エピソード

受賞

文学賞選考委員

著書

共編著

脚注

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