竹丸和幸
日本のプロ野球選手
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経歴
プロ入り前
幼稚園のときに父親にゴムボールを買ってもらい、その父とキャッチボールをするようになったのが野球との関わりの始まり[6]。広島市立矢賀小学校2年生の時に地元の野球チーム(温品ヤングウルフクラブ)に入る[3][5][6]。広島市立二葉中学校までは軟式野球チーム(広島スターズ) でプレーしていた[7]。薮田和樹は小中の先輩にあたる。しかし当時は体が小さく、同チームでは4番手投手扱いだった[6]。
崇徳高等学校に進学するが、入学時点では身長が157cmしかなかった[6]。2年時の夏に應武篤良が監督に就任すると、秋の地区大会で初めてベンチ入りを果たした。3年夏の地区大会では広島国際学院高校との4回戦で先発登板するが、4回1失点の投球もチームは1-3で敗れた。高校で野球を辞める方向であったが、應武監督が「城西大の練習会に参加しろ」と命じ、大学に進学後も野球を続けた[8]。このため本人も、後に「あの時、野球を続ける方向で進めてくれた應武さんのおかげ」と語っている[6]。
城西大学では主に救援投手を務めた[7]。2年の春に2部リーグで初めて登板機会があった。4年春までは2部であったが、4年秋には1部に昇格して3勝1敗、防御率1.52(リーグ2位)の好成績を残した[8]。
城西大学を卒業した後は2024年に鷺宮製作所に入社[9]。それまでやってこなかったウエイトトレーニングを始めたことが転機となり、2年で体重が8kg増加。球速もそれまでの最高149km/hから152km/hにまで上昇した[10]。2024年秋から本格的に先発投手に転向[11]。2025年の春の全国大会では準決勝のJFE東日本との試合で先発登板。8回2失点と好投し、チームの優勝に貢献した[8]。同年夏の第96回都市対抗野球大会では計11回を投げ15奪三振を記録し、スカウト陣の評価を上昇させた[12]。また、秋の同大会でも主力投手として出場を果たした[13]。
2025年のドラフト会議前には、読売ジャイアンツがドラフト1位で指名すると公言した[7][14][13]。10月23日に行われた同年のドラフトでは、公言通り読売ジャイアンツよりドラフト1位で指名を受けた[15][10]。11月20日に入団交渉に臨み、契約金1億円プラス出来高、年俸1600万円で入団に合意した(金額はいずれも推定)[2]。背番号は21[2]。
巨人時代
2026年はオープン戦から好投を重ねた。エース格の戸郷翔征の不調と、山﨑伊織の右肩のコンディション不良による戦列離脱という事情もあり、1年目にして監督の阿部慎之助より開幕投手に指名された[16]。3月27日の開幕試合(対阪神タイガース第1回戦、東京ドーム)では、6回3安打1失点と好投し、勝利投手となった。球団で新人が開幕投手を務めるのは1962年の城之内邦雄以来64年ぶり[注 1]で、勝利投手となったのは90年の歴史を持つ球団として初の快挙ともなった[17]。NPB記録としても新人の開幕投手による勝利は1958年の南海・杉浦忠以来68年ぶりの快挙、またこの日は千葉ロッテの新人・毛利海大も先発初勝利を挙げたため、2人の新人投手が開幕戦初勝利となると1952年に阪神・三船正俊と広島・大田垣喜夫の2投手が勝利して以来74年ぶり2度目の記録となった[18]。
選手としての特徴
人物
広島県広島市出身ではあるが、父親の影響もあり幼少期は阪神ファンであった[16]。