中天竺の僧。経論の数万章を暗誦するなど仏法に明るく、インド学者の師と仰がれた[2][4]。
永平10年(67年)、後漢の明帝の使者蔡愔に招かれて、インド北方の大月氏から迦葉摩騰と共に雒陽に入り、明帝の建立した白馬寺に住した[3][5]。やがて漢語をよく解するようになり、現存する最初の漢訳仏典とされる『四十二章経』および『十地断結』『仏本生』『法海蔵』『仏本行』の5部を訳経したが、『四十二章経』を除く4部は遷都や戦乱を経る内に散佚した[6]。
また昔、前漢の武帝が昆明池の底を掘ったところ黒い灰を得たので、これを東方朔に問うと、東方朔は「西域の胡人に問うべきである」と述べたといい、後漢の時代になって西域を出自とする竺法蘭が来朝したとき、人々はこのことを思い出して竺法蘭にその真相を問うた。竺法蘭は「世界が最終的に滅び尽きるとき、劫火が遍く焼き尽くす。その灰がこれである」と答えた。東方朔の言葉には徴があったとして、信じる者は非常に多かったという[7]。
具体的な時期は不明ながら、60余歳で雒陽において病のため入寂した[2]。