表題作「笑う月」は、安部公房が小学生の頃から何度も見る夢の話である。花王石鹸(後の花王)の商標を正面から見たような顔で、大きく裂けた非情な薄い唇で笑っているオレンジ色の満月に追いかけられる夢の話から、睡眠と意識について考え、以下のような一節が綴られている。
夢は意識されない補助
エンジンなのかもしれない。すくなくとも意識化で書きつづっている創作ノートなのだろう。ただし夢というやつは、白昼の
光にさらされたとたん、見るみる色あせ、変質しはじめる。もし有効に利用するつもりなら、新鮮なうちに料理しておくべきだ。そこでここ数年来、ぼくは枕元に
テープ・レコーダーを常備して待つことにした。見た夢をその場で生け捕りにするためである。つまり肝心なのは、笑う月の身元や正体などではなく、笑う月そのものなのである。
— 安部公房「笑う月」