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第1次佐藤内閣 (第1次改造)

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第1次佐藤第1次改造内閣(だいいちじさとうだいいちじかいぞうないかく)は、佐藤栄作が第61代内閣総理大臣に任命され、1965年(昭和40年)6月3日から1966年(昭和41年)8月1日まで続いた日本の内閣。 前の第1次佐藤内閣の改造内閣である。

内閣総理大臣 第61代 佐藤栄作
成立年月日 1965年(昭和40年)6月3日
終了年月日 1966年(昭和41年)8月1日
与党・支持基盤 自由民主党
概要 内閣総理大臣, 成立年月日 ...
第1次佐藤第1次改造内閣
内閣総理大臣 第61代 佐藤栄作
成立年月日 1965年(昭和40年)6月3日
終了年月日 1966年(昭和41年)8月1日
与党・支持基盤 自由民主党
施行した選挙 第7回参議院議員通常選挙
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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内閣の構成・人事

閣僚
政務次官
(参考)自由民主党三役

なお、内閣改造に伴い、自民党役員改選が行われた。

内閣の動き

第1次佐藤内閣は、前任の第3次池田内閣が、改造から短期間で池田首相の発病により総辞職したことから、ほぼ全閣僚を再任する居抜き内閣として発足。前回の改造からおおむね1年を経た1965年6月3日に改造を行い、自前の政権を構築した。

政権の要は、周山会(佐藤栄作派)の後継候補であった田中角栄党幹事長と佐藤派の長年の盟友関係にあった十日会(岸信介派)を引き継いだ福田赳夫蔵相であった。そのほか、岸派が福田派に代替わりする段階で分裂した交友クラブ(川島正次郎派)からは、川島を副総裁に迎え、赤城宗徳を政調会長に起用した[1]。一方、ポスト池田を争った河野一郎は改造直後に急死、前首相の池田も死去したことから佐藤と同世代のライバルが不在になったことにより、佐藤政権は次世代の田中と福田を育成しつつ、長期政権を築くこととなる[1]。

この頃から、高度経済成長による都市化が進展するにつれ、自民党の基盤であった農村から革新野党の基盤であった都市部へ人口が移動し、これらの野党が議席を伸ばした。第7回参議院議員通常選挙(1965年7月4日)では自民党が改選議席75を71に減らし、日本社会党は28から36、公明党は4から11に増加。7月23日には自民党の贈収賄に端を発する東京都議会の解散選挙(東京都議会黒い霧事件)が行われ、社会党が自民党を抜いて第一党を確保、2年後にはじまる美濃部亮吉の革新都政の呼び水となった[1]

主な政策・出来事

1966年8月1日、内閣改造が行われた。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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