細川碧
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東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」[4]「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)[5]であったとされる。
東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだ[1]。1922年4月、東京音楽学校予科に入学[6]。同校本科声楽部(バリトン)に進学し、ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を、信時潔に作曲を師事し、1926年3月に卒業[1][7]。進んで同校研究科作曲部で引き続き信時に師事し、1929年3月に修了した[1][8]。
1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。そこでは主にフランツ・シュミットに師事し、1934年4月、同学優等賞を受けて学課を修了した。在外生活後半の2年にウィーンおよびブダペスト放送局の委嘱により自作品の演奏と日本音楽の講演などを行うも、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏による交響詩《法の夕》の演奏と日本への中継放送計画は中断している[要出典]。この作品は恩師フランツ・シュミットより「日本のストラヴィンスキー」と激賞されたという[要出典]。
1936年帰国、以後1946年まで東京音楽学校教授として作曲理論の教鞭をとり、後進の指導にあたった。1938年と1944年には自作交響作品の発表会を開催して世に問うた。敗戦後、戦争責任を問われると[注 1]橋本國彦、平井康三郎と共に音楽学校教授を辞職[要出典]。1950年、若くして亡くなった。
没後、多くの自筆譜は弟子の竹内昭一が預かったが、その後行方不明になっている[要出典]。そのうえ、本領としたオーケストラ作品には出版されたものや録音の残るものがひとつもない。そのため、再評価が実質的には不可能になっている[疑問点]。
作品
主な作品に以下のものがある。
管弦楽曲
舞台音楽
- 歌劇《仏陀》(未完、自身の詞による)[10]
声楽曲
- 混声合唱と管弦楽のための《法の夕》(1934年、エミール・ヴェルハーレン 詞、上田敏 訳)[10]
- 混声合唱と管弦楽のための交響楽詩《明治天皇御製組曲》(1937年)[10][11]
- 2人の独唱者(ソプラノ、テノール)と管弦楽のための交響楽詩《大和路》(1940年、佐藤一英 詞)[10]
- 2人の独唱者(ソプラノ、テノール)と管弦楽のための交響楽詩《から松》(1940年、北原白秋 詞)[10]
- 歌曲《悲歌》ト短調(大野守衛 詞)[12]
- 歌曲《カスタニエの》嬰ハ短調(川上嘉市 詞)[13]
- 歌曲《野の幸》ヘ長調(正木つや子 詞)[14]
- 歌曲《大和路》(佐藤一英 詞)[15]
- 歌曲《湖国の春》ハ長調(飯田亀代司 詞)[16][17]
- 歌曲《山百合》変ホ長調(河井醉茗 詞)[18][19]
- 歌曲《白ばら》(富原薫 詞)[20]
- 歌曲《冬》ニ長調(千家元麿 詞)[21]
- 歌曲《春の野に》(良寛 詞)[22]
- 歌曲《桜》(風巻景次郎 詞)[23][24]
- 二部合唱曲《天・日》ニ長調(明治天皇 詞)[25]
- 二部合唱曲《夕月夜》(藤原秀能 詞)[26][27]
- 歌曲《極熱の》ホ長調(柳原白蓮 詞)[28]
- 歌曲《ある日のねがひ》変ホ長調(柳原白蓮 詞)[29]
- 歌曲《青丹よし》嬰ハ短調(小野老、海犬養岡麻呂 詞)[30][31]
- 独唱歌曲または二部合唱曲《惜春》(風巻景次郎 詞)[32][33]
- 歌曲《かもめ》ホ長調(吉屋信子 詞)[34][35]
- 歌曲《落葉松》ホ長調(北原白秋 詞)[36][37]
- 歌曲《旅の日の山寺》変ロ短調(久保田宵二 詞)[38][39]
- 二部合唱曲《象徴》ロ短調(風巻景次郎 詞)[40][41]
- 愛国唱歌《日華提携の歌》ニ長調(小林愛雄 詞)[42]
- 混声四部合唱曲《我が魂の故郷よ》ロ短調(小谷徳水 詞)[43]