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芥川也寸志

日本の作曲家 (1925-1989) From Wikipedia, the free encyclopedia

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、英: Yasushi Akutagawa、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。

死没 (1989-01-31) 1989年1月31日(63歳没)
日本の旗 日本 東京都中央区
ジャンル 現代音楽、映画音楽
概要 芥川 也寸志(あくたがわ やすし), 基本情報 ...
芥川 也寸志
(あくたがわ やすし)
1952年
基本情報
生誕 (1925-07-12) 1925年7月12日
日本の旗 日本 東京府東京市滝野川区(現:東京都北区)
死没 (1989-01-31) 1989年1月31日(63歳没)
日本の旗 日本 東京都中央区
学歴 東京音楽学校
ジャンル 現代音楽、映画音楽
職業 作曲家、指揮者
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作風

作風は大きく3つの時期に分けて論じられる。東京音楽学校を卒業した直後の、快活な旋律とリズムに彩られた第1期。それらの要素を削ぎ落とし、減衰や静的な要素を取り入れた前衛的作風に転換した第2期。そして第1期の快活明朗なリズムを用いつつ、第2期以来の作風とクロスオーバーさせ、新たな世界への転換を図った第3期である。いずれの時期にも共通するものとして、生涯のテーマとなったオスティナートの使用がある。

映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村』(野村芳太郎監督)、『赤穂浪士』のテーマなどが知られ、童謡『小鳥のうた』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソングや社歌も手がけている。

来歴

生い立ち

小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現:東京都北区)田端に生まれる[1]。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・文。長兄は俳優・芥川比呂志、次兄は多加志。也寸志の名は、龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし、万葉仮名に当てて命名したものである。

父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったため自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後に気に入って自ら出版したこともある[2]。

東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手で、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた[2]。1941年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽を志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患った。東京高師附属中の同期には、石川六郎(鹿島建設名誉会長)、山本卓眞(富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。

東京音楽学校と軍楽隊

1943年、東京音楽学校予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試成績一覧表を示されて最下位での合格であることを告げられ、衝撃を受けたという[要出典]。予科の同期には岩河三郎、奥村一、川崎優、斎藤高順、山田紗織(後に結婚)、依田光正(昌忠)がいた[3]。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を、永井進にピアノを学ぶ[3]。

1944年10月、学徒出陣により応召し陸軍戸山学校軍楽隊に配属。東京音楽学校からは伊藤栄一、梶原完、萩原哲昌ら14人の配属者がいたが[4]、芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、教育総監だった土肥原賢二大将から銀時計を賜った。その後、作曲係上等兵として團伊玖磨、奥村一、斎藤高順と共に終戦まで勤務し、様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行った。

1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に復学し、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会って決定的な影響を受けた。当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせる。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼした。

1947年、東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品であるが、生前には初演されず、没後に山田一雄の指揮、新交響楽団により初演された[3]。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。

作曲家としての出発

1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。

1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった[5]。同年3月21日、同曲が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。同じ1950年には、東宝映画『また逢う日まで』(監督:今井正)にピアノを弾く学生の役で出演している[要出典]。

1953年、同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという独自の形式によるコンサートを、東京と大阪で5回開催した。同年の毎日映画コンクールでは『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している[6]。

同年7月に完成した『絃楽のための三楽章(トリプティーク)』は、同年12月4日、クルト・ヴェス指揮ニューヨーク・フィルハーモニックにより世界初演された[3]。国内での初演は約2年後の1955年10月15日、東京労音創立2周年記念演奏会における芥川自身の指揮、東京交響楽団によるものであった[3]。この間の1955年8月3日、同曲はワルシャワで開催された第5回世界青年学生平和友好祭の国際コンクール作曲部門で3位に入賞している[3]。

1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に自作を携えて入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、ついには自作の演奏、出版にまでこぎつけた[要出典]。同年12月28日には上海交響楽団を指揮して自作演奏会を行っている[3]。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国した。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。

新交響楽団と作風の転換

1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年に鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動した。一方で、同団では一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行っている。

1957年、ヨーロッパ旅行の帰途にインドに立ち寄り、エローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた空間に衝撃を受けた。このときの感動から作曲された『エローラ交響曲』は代表作の一つとなった。この頃から、動的な作風に代わって静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川の芸術観形成に大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた。

1959年、『Nyambe』が放送初演。『エローラ交響曲』で見せ始めた前衛的な語法が前面に押し出され、半音階的書法、無調性、微分音なども多用されている。

1960年には大江健三郎の台本によるオペラ『暗い鏡』を発表。原爆後遺症に苦しむ青年を描いた問題作として話題となった。この作品はのちにテレビオペラ『ヒロシマのオルフェ』に改作される。

1962年には『絃楽のための音楽 第1番』が東京現代音楽祭で初演される。ポスト・ヴェーベルン的な点描様式と日本の「間」の美学が組み合わされたこの静謐な作品は、武満徹に捧げられた。1966年には、この作品の編成を拡大した「絃楽オーケストラのための『陰画』」を放送初演し、自身の「マイナス空間論」の探求を深めた。

同じ1966年、新交響楽団が労音から独立。この動きはマスメディアにも取り上げられた。1967年12月には、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立している。

1967年には、それまでの作風から転換し、再びオスティナートを前面に押し出した作風へ回帰する。その背景には、松村禎三の「頭だけで考えていては何もできない」という言葉があったという[要出典]。その後は「オスティナータ・シンフォニカ」(1967年)、「舞踏組曲『蜘蛛の糸』」(1968年)、「オーケストラのためのラプソディ」(1971年)などを発表し、前衛的手法から従来のオスティナート技法を徐々に取り戻していった。1969年の「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」では、徹底的なオスティナートを堅持した作風を披露している。この作品の楽譜は1978年、ソヴィエト作曲家同盟によっても刊行された[3]。

放送・著作権活動と晩年

1976年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。音楽番組のみならずテレビの司会を何度か務めており(東京12チャンネル『木曜洋画劇場』など)、ラジオの分野では1967年から死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。

1978年、第1回日本アカデミー賞において『八甲田山』『八つ墓村』により最優秀音楽賞を受賞した。

作曲活動と並行して、著作権関連の国際団体である著作権協会国際連合(CISAC)の理事も務め、1982年にローマ、1986年にモントリオール、1987年にシドニー、1988年にハーグで開催された理事会にそれぞれ出席している[3]。また1981年と1984年にはソビエト国際音楽祭に招かれて訪ソし、自作を指揮するとともに『ヒロシマのオルフェ』の演奏会形式上演にも立ち会った[3]。1986年にはモスクワで日ソ音楽協会主催「日本交響作品展」が開催され、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮ソ連文化省交響楽団により、小倉朗、松村禎三の作品とともに芥川の『オーケストラのためのラプソディ』が演奏された[3]。

1988年夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断で進行した肺癌が見つかり、東京都中央区の国立がんセンターに入院、手術治療を受けていったんは成功した。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に病状が悪化して再入院。それまでに合唱パート全てと6分の1ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼した。そして病状好転せぬまま、1989年1月31日に入院先で死去した63歳没。墓所は豊島区の慈眼寺。没後、勲二等瑞宝章を追贈された。

死去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だったという[要出典]。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題はなかにしの発案によるものだったが、なかにしは芥川からタイトルを訊かれた際、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した同曲は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。

生前、芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたが、その死により実現しなかった。

芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。また芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。2002年には、芥川を記念する「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立されている。

芥川の生誕100年にあたる2025年、それまで破棄されたと考えられていた『弦楽四重奏曲』(1948年)の楽譜が現存していることが確認され、同年1月に全音楽譜出版社から刊行された。この楽譜に基づき、川田知子(第1ヴァイオリン)、山本友重(第2ヴァイオリン)、篠﨑友美(ヴィオラ)、山本裕康(チェロ)による世界初録音が行われ、キングレコードのアルバム『響 芥川也寸志の音楽世界』に収録された[7]。

人物

芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの成果を上げた。この背景には、若い頃に父の印税が途絶えて生活に苦しんだ経験があるといわれる[要出典]。1989年には芥川の肖像が著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用された(ただし郵政省の公式見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)[8]。そのほかにも生涯を通じ、純粋な音楽活動以外の社会的分野でも精力的な活動を行っている。

快活な人柄で知られたが、芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川には珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。

父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。

1967年の東京都知事選挙では、美濃部亮吉を支援した[9]。

私生活

結婚を3度している。

1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を控えさせた。理由は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」という即物的なものであった[注 1][注 2]。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向し、程なく画家として認められた。しかし二女をもうけた後、1957年に離婚した[注 3]。長女・芥川麻実子(1948年生)はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターとなった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。

2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。

3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくヤマハ・エレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。真澄との間に生まれた息子・芥川貴之志(1972年生)は、エディター・スタイリストとして活動している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。

主な作品

『日本の作曲家:近現代音楽人名事典』(日外アソシエーツ、2008年)の「芥川也寸志」の項目掲載の曲目を中心に掲載[12]。

管弦楽・弦楽

室内楽・器楽

  • ラ・ダンス(1948年、ピアノ)
  • 弦楽四重奏曲(1948年、弦楽四重奏) - 第2・3楽章を「弦楽のための三楽章(トリプティーク)」に改作した後、破棄されたとされていたが楽譜は現存しており、2025年に全音楽譜出版社から刊行、川田知子・山本友重・篠﨑友美・山本裕康の演奏による世界初録音がキングレコードのアルバム『響 芥川也寸志の音楽世界』(2025年)に収録された[7]。
  • ヴァイオリンとピアノのための「譚詩曲(バラッタ)」(1951年)
  • ヴァイオリンとピアノのための「東北の獅子舞」(1979年)- 発表時のタイトルは「ヴァイオリンとピアノのためのSASARA」
  • 子供のための「24の前奏曲」(1979年、ピアノ)
  • ノクターン(1987年、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)

オペラ

  • 歌劇「暗い鏡」(1960年)- 台本:大江健三郎。破棄。後に「ヒロシマのオルフェ」に改作。
  • 歌劇「ヒロシマのオルフェ」(1967年)- 台本:大江健三郎。ザルツブルク・オペラ・コンクール第1位。西村朗による室内管弦楽編曲版が存在する。

吹奏楽

  • March1979「栄光をめざして」(1979年/朝日新聞社創立100年記念委嘱/オーケストラ版あり)
  • 行進曲「風に向かって走ろう」(1982年/あかぎ国体開催記念委嘱/オーケストラ版あり)

ミュージカル・音楽劇

  • 子供のための交響曲「双子の星」(1957年、宮澤賢治作「雙子の星」による)
  • 森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年)- 語り手と管弦楽

舞踊音楽

合唱曲

  • 心の種子(1951年、合唱・ピアノ)- 全国唱歌ラジオコンクール(現・NHK全国学校音楽コンクール)中学校の部課題曲
  • 祖国の山河に(1953年、無伴奏合唱)- うたごえ運動のための
  • 砂川(1956年、混声合唱・ピアノ)1.風に、2.土に、3.人に、4.火に - うたごえ運動のための
  • 新聞(1956年、4声)
  • お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく(1958年、無伴奏混声合唱)
  • 21世紀賛歌・人間はまだ若い(1983年、混声合唱・2管編成管弦楽・ブラス、宮沢章二詞)
  • 佛立開導日扇聖人奉讃歌「いのち」(1988年、混声合唱・3管編成管弦楽、なかにし礼詞)- 絶筆。鈴木行一補作。1989年、追悼コンサートにて初演。

独唱曲

  • 歌曲集「車塵集」(1949年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)1.もみぢ葉、2.薔薇をつめば、3.水彩風景、4.採蓮、5.春のをとめ
  • パプア島土蛮の歌(1950年、声・ピアノ)- 歌詞はパプア語による

童謡

  • ぶらんこ(1950年、NHKラジオ「幼児の時間」)
  • 小鳥のうた(1952年、作詞:与田準一)

映画音楽

放送音楽

  • えり子とともに(NHKラジオ、1949年)「初恋の歌」「えり子の歌」(野上彰作詞)
  • 赤穂浪士(NHKテレビ、1964年)

出版楽譜・ディスコグラフィ

出版楽譜

全音楽譜出版社が芥川作品のC&R(作品管理・レンタルライブラリー)を扱っており、2026年時点で「交響管絃楽のための前奏曲」「交響三章(トリニタ・シンフォニカ)」「弦楽四重奏曲」「交響管絃楽のための音楽」「ヴァイオリンとピアノのための譚詩曲」「交響曲第1番」「エローラ交響曲」「赤穂浪士」「弦楽オーケストラのための〈陰画〉」「歌劇《ヒロシマのオルフェ》」「チェロとオーケストラのための〈コンチェルト・オスティナート〉」「オーケストラのためのラプソディ」「秋田地方の子守歌」「八甲田山」「Do Re Mi Fa Sol La Si Do!」「March1979〈栄光をめざして〉」(吹奏楽版・管弦楽版)「行進曲〈風にむかって走ろう〉」(吹奏楽版・管弦楽版)「オルガンとオーケストラのための〈響〉」など、24作品を管理している[13]。

生誕100年(2025年)を機に、同社から既刊の「現代日本の音楽」シリーズ譜のほか、解説付きの「スタディ・スコア」シリーズが集中的に刊行された。確認できる限り、年代順に以下のとおり[14]。

  • 2019年7月 - ヴァイオリンとオーケストラのための秋田地方の子守歌 ヴァイオリンとピアノのためのリダクション版(ISBN 9784113011429)
  • 2024年6月 - 赤穂浪士 大河ドラマテーマ曲(ISBN 9784118998435)
  • 2025年1月 - 交響曲第1番(ISBN 9784118936055)およびスタディ・スコア(ISBN 9784118998534)
  • 2025年1月 - 弦楽四重奏曲(ISBN 9784115902503)- 前述のとおり、破棄されたとされていた作品の現存が確認され初めて出版されたもの
  • 2025年2月 - 交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(ISBN 9784118936062)およびスタディ・スコア(ISBN 9784118998541)
  • 2025年2月 - エローラ交響曲(ISBN 9784118936079)およびスタディ・スコア(ISBN 9784118998558)
  • 2025年7月 - 交響管絃楽のための音楽 スタディ・スコア(ISBN 9784118998657)
  • 2025年8月 - チェロとオーケストラのための〈コンチェルト・オスティナート〉 スタディ・スコア(ISBN 9784118998688)
  • 2025年9月 - オルガンとオーケストラのための〈響〉 スタディ・スコア(ISBN 9784118998695)
  • 2026年6月 - 交響管絃楽のための前奏曲(ISBN 9784118998749)

ディスコグラフィ

生誕100年(2025年)前後に新録音・復刻が相次いだ。主なものは以下のとおり(発売日順)[14]。

  • 「蜘蛛の糸 芥川也寸志の芸術1 管弦楽作品集」(キングレコード、KIGC-4、2013年3月13日)- 指揮:本名徹次、日本フィルハーモニー交響楽団。
  • 「芥川也寸志:交響曲第1番、交響三章、弦楽のための三楽章」(EMI×タワーレコード「Excellent Collection」、QIAG-50106、2013年6月19日再発)- 指揮:森正、東京交響楽団。
  • 「芥川也寸志 幻のバレエ音楽」(スリーシェルズ、3SCD-0022、2015年7月12日)- バレエ・ファンタジー「湖底の夢」二幕四場。芥川自身の指揮、ABC交響楽団および東京交響楽団による歴史的音源。
  • 「芥川也寸志:交響曲第1番、交響三章」(Exton、OVCL-00660、2018年5月23日)- 指揮:鈴木秀美、オーケストラ・ニッポニカ。
  • 「八甲田山 オリジナル・サウンドトラック」(CINEMA-KAN、CINK78、2019年5月22日)
  • 「オーケストラ・トリプティークによる芥川也寸志個展―芥川が絃楽へ寄せた想い―」(スリーシェルズ、3SCD0044、2019年5月25日)- 指揮:水戸博之、オーケストラ・トリプティーク。「弦楽オーケストラのための〈陰画〉」「大河ドラマ『赤穂浪士』よりテーマ」ほかを収録。
  • 「芥川也寸志生誕90年メモリアルコンサート」(スリーシェルズ、3SCD0045、2019年5月25日)- 指揮:松井慶太、オーケストラ・トリプティーク。「Do Re Mi Fa Sol La Si Do!」「祝典組曲No.3」ほかを収録。
  • 「日本管弦楽名曲集」(Naxos、NYCX-55071、2020年5月22日)- 指揮:沼尻竜典、東京都交響楽団。外山雄三・近衞秀麿・伊福部昭・小山清茂・吉松隆の作品と併録。
  • 「芥川也寸志、伊福部昭/藤岡幸夫、東京シティ・フィル」(スリーシェルズ、3SCD-0055、2020年8月11日)- 「交響曲第1番」を収録。
  • 「芥川也寸志:エローラ交響曲/交響三章 他」(Naxos、NYCX-55975、2020年9月18日)- 指揮:湯浅卓雄、ニュージーランド交響楽団。「オーケストラのためのラプソディ」を含む。
  • 「太平洋ひとりぼっち 音楽大全」(スリーシェルズ、3SCD-0063、2021年6月24日、CD+BOOK)- 武満徹との共作による映画音楽全曲収録。
  • 「早坂文雄と芥川也寸志の対話」(Salida、DESL018、2022年7月13日)- 1955年5月収録の芥川によるインタビュー音源。
  • 「チャイコフスキー:交響曲第4番、第5番、第6番、ただ憧れを知る者だけが、イタリア奇想曲」(Tobu Recordings、TBRCD0176、2025年7月26日)- 芥川也寸志指揮、新交響楽団による歴史的ライヴ録音。「ただ憧れを知る者だけが」は芥川編曲による。
  • 「芥川也寸志指揮、新交響楽団 Vol.2」(Tobu Recordings、TBRCD0179、2025年10月25日)- ベートーヴェン「交響曲第9番」を含む、芥川自身の指揮による新交響楽団のライヴ録音集。
  • 「響 芥川也寸志の音楽世界」(キングレコード、KICC-1635、2025年10月29日)- 生誕100年記念盤。2025年に楽譜が刊行された「弦楽四重奏曲」(1948年)の世界初録音を含む[7]。
  • 「芥川也寸志 傑作集」(MClassics、MYCL00068、2025年12月19日)- 指揮:野平一郎、オーケストラ・ニッポニカ。舞踊組曲「蜘蛛の糸」全曲を収録。
  • 「芥川也寸志生誕100年記念コンサート」(スリーシェルズ、3SCD0080、2026年2月28日)- 指揮:藤岡幸夫、オーケストラ・トリプティーク、生誕100年記念合唱団。「交響管絃楽のための前奏曲」「交響管絃楽のための音楽」ほかを収録。

このほか、映画音楽についても松竹・東宝などから多数のオリジナル・サウンドトラック盤やBlu-ray/DVDが復刻されている(『八つ墓村』『砂の器』『鬼畜』『疑惑』『わるいやつら』など)[14]。

著書

  • 現代人のための音楽(新潮社一時間文庫、1953年)- 共著。doi:10.11501/2466215
  • 現代音楽に関する3人の意見(中央公論社、1956年)- 團伊玖磨、黛敏郎との共著。doi:10.11501/2478739
  • 私の音楽談義(青木書店、1956年 doi:10.11501/2478548 → 音楽之友社、1959年 doi:10.11501/2488103 → ちくま文庫、1991年 → 中公文庫、2025年7月)
  • 音楽の現場(音楽之友社、1962年)doi:10.11501/2497009
  • 音楽を愛する人に――私の名曲案内(筑摩書房、1967年 → 旺文社文庫、1981年 → ちくま文庫、1990年)- 日本点字図書館から1991年に点字版が刊行された。
  • 音楽の基礎(岩波新書、1971年)- 度々再版
  • 音楽の遊園地(れんが書房、1973年 → 旺文社文庫、1982年)doi:10.11501/12431693
  • 歌の絵本(全2巻)(講談社、1977-1979年)- 編纂。
  • 人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集(芸術現代社、1978年)
  • 人はさまざま歩く道もさまざま――続 芥川也寸志対話集(芸術現代社、1978年)
  • 音楽の旅 エッセイ集(旺文社文庫、1981年)doi:10.11501/12431571
  • ぷれりゅうど(筑摩書房、1990年9月)

訳書

  • ドナルド・エリオット『絵本 ワニのオーケストラ入門』(岩波書店、1983年、復刊2014年)- クリントン・アロウッド絵、石井史子と共訳。

評伝

  • 『芥川也寸志 その芸術と行動』出版刊行委員会編(東京新聞出版局、1990年)
  • 『芥川也寸志 昭和を生き抜いた大作曲家』芥川眞澄監修(ヤマハミュージックメディア、2018年、新編2023年)
  • 藤原征生『芥川也寸志とその時代 戦後日本映画産業と音楽家たち』(国書刊行会、2025年)

出演歴

テレビ

ラジオ

  • 音楽クラブ - やぶにらみの音楽論(NHKラジオ、1956年 - 1960年)
  • サンスイ名曲サロン(TBSラジオ、1964年4月3日 - 1965年4月30日)
  • オーナー(TBSラジオ、1964年7月13日 - 1966年10月1日)
  • 今晩は! 音楽です(TBSラジオ、1965年8月5日 - 1966年4月7日)
  • 百万人の音楽(TBSラジオ、1967年4月16日 - 1988年)

関連人物

門下

アシスタント

脚注

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