細野藤永
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藤永は『勢州軍記』、『北畠物語』等の伊勢国の軍記物語に登場せず、伊勢国の地誌である『勢陽雑記』[3]、『勢陽五鈴遺響』[4]、『勢国見聞集』[5]に名前が見える。
地誌によれば、織田信長の重臣滝川一益の次男で、幼名は八丸[3][5](または八麻呂[4])。永禄11年(1568年)、伊勢の長野工藤氏は織田信長の侵攻を受け、信長の弟織田信包を家督に迎えることで和議が結ばれていたが、工藤一族の安濃城主細野藤敦は信包と不仲であった。永禄12年(1569年)、藤敦は信包が信長の下に年頭の挨拶に出向いて不在の隙を突いて信包の居城長野城を占領して籠城したので、信長は藤敦を懐柔することにし、滝川八丸を自身の猶子とした上で藤敦の養子に遣わすという条件で和議を持ちかけて藤敦はこれを承知した[1][2]。滝川八丸は細野藤敦と父子の契りを結び、15歳のときに藤敦の娘(鶴)の婿となって細野藤九郎藤永と称した[3][5]。
天正8年(1580年)2月2日、織田信包は居城の津城(長野城から移転)に藤敦父子を茶会を名目に呼び出して討とうと図った。藤敦は暗殺の企てを察して茶席から抜け出して安濃城に逃亡し、追って馳せ帰ってきた藤永は、津城の城内では藤敦を討ち漏らしたと騒動になっていると告げた。藤敦の弟の雅楽助と宝泉院が、貴殿は信包の甥であるから暗殺の企てを事前に知っていたのではないかと詰問すると、藤永は涙を流し、15歳で細野家の名字を継いでから4年にわたっていとおしまれた厚恩を忘れることがあろうかと言って、槍を取って安濃城の大手門の守備に立った[3][5]。やがて津城から追手の軍勢が押し寄せ、藤敦は逃げ延びることができたが、藤永は雅楽助、宝泉院とともに城を枕に討ち死にした[1][2]。
異説
織田信包の安濃城攻めは、『北畠物語』では天正5年(1577年)2月のこととされている[6]。『勢州軍記』では同じく天正5年頃とされる雲林院氏の追放の記事に続けて「細野九郎右衛門尉等もまた同じく流罪とされた」とのみある[7]。『津市史』は天正8年説を採るのに対し[2]、『三重県史』は天正5年説を採り[8]、『安濃町史』はにわかには決めがたいとする[1]。
『北畠物語』では細野藤敦の親族からの戦死者は弟の細野雅楽助、宝泉院のみである[6]。
地誌では細野藤永は滝川一益の次男「八丸」とされているが、『勢州軍記』では、一益の嫡男三九郎と次男八丸は天正10年(1582年)の時点で存命で父と行動をともにしており、八丸は神流川の戦いの戦いの際に北条軍に捕えられて一益の家臣古市九郎兵衛尉に救出されたとされている[9]。
滝川三九郎の弟「御八」は天正12年(1584年)の吉田兼見の日記『兼見卿記』にも名前が見え[10]、「滝川八」は同年7月12日付けで羽柴秀吉から所領宛行の判物を与えられている(寛永諸家系図伝所収文書)[11]。この滝川八は、通称を八郎、久助とする一益の子滝川一時のこととされる[12]。一時の没年は慶長8年(1603年)である[13]。
脚注
- 1 2 3 4 安濃町史編纂委員会 編『安濃町史』 通史編、安濃町、1999年、230-233頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13141775/143。
- 1 2 3 4 『津市史』 第1巻、津市、1959年、29-32頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9568962/35。
- 1 2 3 4 『勢陽雑記』 3巻。https://www.digital.archives.go.jp/img/4294403。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)(62-70コマ)
- 1 2 『勢陽五鈴遺響』 6巻、伊東太三郎、1903年、ア27-29頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991422/15。
- 1 2 3 4 「勢国見聞集」『松阪市史』 第8巻 (史料編 地誌1)、蒼人社、1979年、681-684頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9570104/347。
- 1 2 『北畠物語』 3巻。https://www.digital.archives.go.jp/img/4293677。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)(50-51コマ)
- ↑ 「勢州軍記」『続群書類従』 第21輯ノ上 合戦部、続群書類従完成会、1923年、46頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936494/27。
- ↑ 三重県 編『三重県史』 資料編 近世 1 本編、三重県、1993年、203頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572190/165。
- ↑ 「勢州軍記」『続群書類従』 第21輯ノ上 合戦部、続群書類従完成会、1923年、51頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936494/29。
- ↑ 『兼見卿記』。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100257438/497?ln=ja。 (国書データベース)(497コマ)
- ↑ 『寛永諸家系図伝』 紀姓。https://www.digital.archives.go.jp/img/4139671。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)(41-42コマ)
- ↑ 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』KADOKAWA、2024年、330頁。
- ↑ 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、476頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12190206/242。