滝川一時
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永禄11年(1568年)に生まれる[注釈 1]。天正10年(1582年)の甲州征伐で戦功を挙げた一益が上野国を与えられた際に父と行動をともにしており、『石川忠総留書』に一益が厩橋城で能興行を催し自ら「玉鬘」を舞った際に、次男「於八」が舞台で見物していたという記述がある[5][6]。軍記物語では本能寺の変で信長が横死した後の混乱の中で一益の次男「八丸」が敵に捕えられて一益の家臣古市九郎兵衛尉に救出されたという話があり、『勢州軍記』では神流川の戦いの戦いの際に北条軍に[7]、『常山紀談』では木曽路を伊勢に向かっているところで一揆に捕えられて救出されたことになっている[8]。
天正11年(1583年)、一益が織田信雄・羽柴秀吉に対して伊勢で挙兵すると、一時は父に従って秀吉と敵対した。一益は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れた後に降伏し、一時も領地を失って越前国大野郡に蟄居した[2]。
天正12年(1584年)3月、秀吉と織田信雄・徳川家康が対立して小牧・長久手の戦いの戦いが起こると、一益は1万5000石を与えられる約束を受けて[2]秀吉方についた[9]。一時も秀吉方の武将として参戦し、4月には一益や兄の一忠と別行動を取っていて、伊勢方面の戦況について秀吉と連絡を取り合っている[10][注釈 2]。
7月3日、一益と一忠は籠城していた尾張国蟹江城を守りきれずに信雄・家康に降伏し、伊勢に退いた(蟹江城合戦)。秀吉は滝川父子の体たらくに激怒し、一益を逼塞、一忠を追放にしたと伝わる[11][12]。
一時は許され、秀吉は7月12日に約束の1万5000石のうち、3000石を一益の隠居料にあて、残り1万2000石は一時に与えた(寛永諸家系図伝所収羽柴秀吉判物)[2][注釈 3]。これにより、一時は一益の家督を継いで1万2000石を領する大名になったとするのが通説であるが[1][9]、秀吉と信雄が講和した後に一時は身柄を羽柴秀長に預けられた[2][3]。日光東照宮奉納の『寛永諸家系図伝』真名本(漢文体)では、国立公文書館内閣文庫所蔵で校訂本が続群書類従完成会から刊行されている仮名本(和文体)と記述が異なり、一時は秀吉と信雄が講和した後に反逆行為が信雄の怒りに触れて追放されたことになっている[14][注釈 4]。『寛政重修諸家譜』の編纂に当たって滝川家から江戸幕府に提出された家譜では講和後に秀吉の命令で信雄の家老が改易された際に一時も改易されたとする[13]。弟の辰政が岡山藩に提出した身上書では、一益の没落後に身を寄せていた丹羽長秀が天正13年(1585年)に没した後、織田信包の下に兄弟で移ったと記されている[15]。
文禄元年(1592年)、徳川家康が富田一白を通じて秀吉に一時を預かりたい旨を申し入れ、秀吉の了承により家康に仕えた。同年の文禄の役に供奉して名護屋城に参陣し、翌文禄2年(1593年)に徳川家から下総国芝原、五反田、板川、上大蔵、中田、富田、谷津、山田、和田、成山郷など2千石を与えられた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで家康に供奉し、慶長7年(1602年)に徳川秀忠に附属された[3]。
慶長8年(1603年)6月2日、下総の所領で一時が病臥したことを聞いた秀忠は、本多正重を見舞いの上使として派遣したが、一時は同日に病死した。一時の死を知らせる使者と道中で行き合って江戸に引き返してきた正重から報告を受けた秀忠は、「勇者の末葉(滝川一益の子孫)を殊に扶助すべきところ、不幸にして早世してしまった」と哀惜したという[2][3]。
2歳の遺児一乗が遺領を継ぐことになったが、幼年のため、すでに成人している従兄(一時の兄一忠の子)の一積が名代に立てられた[3]。
脚注
注釈
- ↑ 『寛永諸家系図伝』には幼年より織田信長に仕え、伊勢国亀山と近江国甲賀郡を領していたとされているが[2]、亀山領は実際には織田信孝の管轄下にあって天正10年(1582年)には旧城主関盛信に返還されている[4]。
- ↑ 『寛永諸家系図伝』では、秀吉が一時に軍忠を尽くせば本領を安堵するとして先陣の列に加わるように命じ、一時は主君である織田家に対して逆戦の弓を引くことはできないと辞退したが、秀吉の重命により辞することができず参戦したとする[2]。
- ↑ 『寛永諸家系図伝』では秀吉が一時に所領宛行の判物を与えた後に、所領安堵を名目として信雄との戦いに味方するように一時を誘引したように時系列を逆にして書かれており[2]、『寛政重修諸家譜』の編纂に当たって滝川家から江戸幕府に提出された家譜も同じであるが[13]、『寛政重修諸家譜』では秀吉に味方した結果として判物を得たように順序を修正されている[3]。
- ↑ 和文「のち秀吉信雄と和睦のとき一時をして大和大納言秀長にあづけしむ」[2]。漢文「其後秀吉與信雄講和信雄怒一時敵對令一時放故被預秀長」[14]。
出典
- 1 2 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、476頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12190206/242。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『寛永諸家系図伝』 紀姓。https://www.digital.archives.go.jp/img/4139671。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)41-45コマ。
- 1 2 3 4 5 6 7 『寛政重脩諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、443頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/230。
- ↑ 関町教育委員会 編『鈴鹿関町史』 上巻、関町、1977年、169-171頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9571332/107。
- ↑ 東京大学史料編纂所 編『大日本史料』 第11編之1、東京大、1927年、661頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/365。
- ↑ 『石川忠総留書2』。https://www.digital.archives.go.jp/img/4402624。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)4コマ。
- ↑ 「勢州軍記」『続群書類従』 第21輯ノ上 合戦部、続群書類従完成会、1923年、51頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936494/29。
- ↑ 湯浅常山『常山紀談』博文館、1909年、176頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992078/113。
- 1 2 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第9巻 (たかーて)、吉川弘文館、1988年、93頁。
- ↑ 米山一政 編『真田家文書』 上巻、長野市、1981年、41頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12281606/31。
- ↑ 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』KADOKAWA、2024年、327-330頁。
- ↑ 『兼見卿記』。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100257438/497?ln=ja。 (国書データベース)497コマ。
- 1 2 『諸家系譜』 滝川・滝・滝野・滝村・立花。https://www.digital.archives.go.jp/img/2541108。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)61-64コマ。
- 1 2 日光東照宮社務所 編『寛永諸家系図伝』 6巻、日光東照宮社務所、1991年、151頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13179704/84。
- ↑ 倉地克直 編『岡山藩家中諸士家譜五音寄』 2巻、岡山大学文学部、1993年、46頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13229433/30。