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総力戦研究所

大日本帝国における内閣総理大臣直轄の研究所 (1940-1945) From Wikipedia, the free encyclopedia

総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ、旧字体: 總力戰硏究所󠄁、英語: Total War Research Institute)は、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された、内閣総理大臣直轄の研究所、教育機関である[1][2]。

この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と、“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった[3][2][4]。1945年(昭和20年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止[5][6]。

設立

総力戦研究所は大政翼賛会下の第2次近衛内閣の新体制運動で軍、官、民の同志的結合を期待された内閣直属の機関である[7][8][9]。

縦にAからCを貫きてBを横断的に連ねたる中核的指導部は、私党的派閥的形態に非ざる合理主義に立脚し、軍、官、民の同志的結合として之を編成する。而して、之が結合の中心点の第一段階を拡大強化せられたる企画院とし、発展の必然として新体制の中枢部より漸次官、民の各層に及ぶべきものである。近く設立さるべき総力戦研究所は、斯かる建前に基く一重要機関として更に将来の拡大強化と一段の活用を期すべきである — 陸軍省、「『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』中第四条国内指導ニ関スル具体的要目」昭和十五、七、二五[10][11]

第一次世界大戦末期より、次に戦争が起きた場合は、総力戦となるであろうという懸念が政財界、軍の間で考えられていた[12]。設立にあたっては、紆余曲折を経たが、1940年(昭和15年)8月、設立が閣議決定され、10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた[13]。星野直樹が所長事務取扱、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍大佐)、奥村勝蔵(外務省書記官)、大島弘夫(内閣書記官)、前田克巳(大蔵省書記官)、寺田省一(農林省書記官)、岡松成太郎(商工省書記官)らが最初に充てられた[14]。同年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[15](陸軍少将、1941年10月に同所主事)が加わった[16]。1941年1月に参謀本部から飯村穣中将が初代所長として赴任した。

1941年4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名[17][18][19]。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁王(陸軍中佐、当時陸軍大学校教官)が聴講生として入所した[20][21]。一期生は1942年(昭和17年)3月まで研究・研修を行い卒業となった[20]。

1942年4月に第二期生39名を、1943年(昭和18年)には第三期生40名を受け入れている[22]。その三期生は、同年12月15日で繰り上げ卒業[20]。

実体としては、研究機関というより教育機関であり、欧州に留学した陸軍軍人(辰巳栄一や西浦進等)がイギリスの帝国国防大学などで文官・武官を問わず人材育成をしていることに注目して設立した、現在でいうところの「大学院大学」であった[3][23][2][24]。名称も「国防大学」にしようとしたが、「大学という字句は文部省の所管とならねば異存が出る」として、西浦進が書いた要綱案に使った仮称の「総力戦研究所」が使用された[3][25][26]。

入所者について

入所に当たっては、一定の資格要件があり、各省庁の推薦を経て、面接試験によって入所が決まった[27][28]。資格要件や待遇は下記のとおりである。

  1. 人格面が高潔であること、頭脳明晰、健康体であること、そして将来各方面において指導者たる存在となりえる人物[27][29]
  2. 武官の場合、階級は少佐又は大尉であること、文官は高等官四等ないし六等で任官5年以上となる者[27][29]
  3. 民間の場合、文武官と同等の職歴経験を有する者[27][29]
  4. 年齢は35歳程度までを上限とする[27][29]
  5. 途中退所は原則として不可[27][29]
  6. 給与については、研究所入所前の組織より支払われるものとするが、指揮系統については研究所の指揮下に入ることとする[27][29]。ただし、研究に関する出張旅行についての旅費は研究所より支給する[27][29]。

途中退所は原則不可であったが、実際は日本製鉄からの入所者が、軍への入隊のため退所した[30]。

入所者は講義などの座学に加え、軍の演習や、軍需工場の視察などを行った[31][30]。視察には満州や中国への視察もあった[30]。講義も研究所の所員によるものもあれば、外部講師を招聘した講義もあり、外部講師には尾崎秀実、辻政信の講義もあった[32][33]。

机上演習

1941年4月1日付総力戦研究所所長達四号(初代所長飯村穣(陸軍中将))「総力戦研究所研究教則」第三.教育の方法(2)演練(ロ)机上演習(総力戦演習)に基づき[34]、『第一回総力戦机上演習実施計画』が立てられた[35]。机上演習の雰囲気はこの間、統裁部の指導が強力であったことはもちろんですが、相当程度まで発言の自由が認められたことは、今から考えても意外なほどです。発表会のときの東条陸相の渋面も思い起こされます[36]という状態であった。

当時の情況

アメリカと日本の圧倒的な国力差は当時認識されており、こうした絶対的な差を、日本の当局はとくに国民に隠そうとはしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていましたという状態であった[37]。1941年7月、秋丸機関は石油事情から考えて1941年12月日米開戦が有利ではあるものの1943年から日本の戦力は加速度的に低下するという経済学者武村忠雄の報告をあげたが陸軍は採用せず、武村は1941年末以降には総力戦研究所に所属する[38][39]。当時武村達の報告の内容は雑誌誌面等でも公開されており秘密ではなかった[40]。対英米開戦の困難さを示す研究は無数にあったので長期戦の困難さは共有され[41]、米英と日本の国力の差は一般人にも数字で公表されていた[42]。秋丸機関の秋丸次朗は総力戦研究所経済戦審判部で昭和十六年度・十七年度に経済戦一般の演習主務を勤めた[43]。1940年8月末、陸軍省整備局からの委託で企画院は対英蘭戦を想定した『応急物動試案』にて基礎物資の供給力が半減し、軍需だけでなく民需でも10%以下に落ち込むものがあり、国民生活が維持できないと算出した[44][41]。陸軍芝生英夫戦備課課長他は1941年3月19日東条陸相、参謀本部首脳陣等へ……帝国の物的国力は対英米長期作戦の遂行に対し不安あるを免れず、即ち敵にして進んで決戦を挑む挙に出づる限り第二年終期迄は之を撃減するに概ね十分なる弾撥力を有すべきも、その頃一時液体燃料に懸念を生ずる懼あると共に、戦局瀰久するに随い経済抗堪力動揺する事あらん[45]とする国力分析研究を提示した[46][41]。1941年8月、企画院総裁鈴木貞一は蘭領印度の石油を入手しても戦闘による破壊で直ぐには入手できないと述べ[47]、第二次近衛内閣の下では戦争により損耗する船舶は20~25万トン、造船年70万トンで国力を維持できないとしていたが[48]、11月5日御前会議では意見が変わった[41]。ニューヨーク駐在武官陸軍新庄健吉主計大佐の日米工業生産力の差を10対1から20対1と分析したレポートは1941年9月大本営政府連絡会議に提出されたが検討されなかった[49][41]。

第一回机上演習

第1期・第2期

1941年4月13日日ソ中立条約が成立し、6月22日ドイツがソ戦へ侵攻する中、6月11日[50]、第一回机上演習第1期の個人作業が課せられ、7月12日には第2期演習状況及課題が課せられ[51][52][53][35][54]、研究員はシミュレーション上の日本国政府である「青国政府」の模擬内閣を、総力戦研究所側は堀場一雄所員と松田千秋所員を中心に統監部と統師部(大本営)の役割を与えられた[55][56][57][18][57]。1941年7月24日、内閣総辞職を決定したが、政府統師部戦略会議で青国政府(仮想日本政府)の方略は対E(オランダ領東インド)進出と決定され。総辞職は翻った[58][59]。

模擬内閣閣僚となった研究生たちは統監部となった研究所側から出される期間の区切りごとの想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、戦争の展開を陰解法的な方針でシミュレーションした[55][60][61][18]。対象はA.米国 B.英国 C.志那(※中国) D.蘇聯(※ソ連) E.蘭領東印度(※オランダ領東インド) F.佛印(※フランス領インドシナ) G.濠洲(※オーストラリア) H.布哇(※ハワイ) I.印度(※インド) J.内南洋(※南洋諸島) K.加奈陀(※カナダ) L.中南米 M.満州国 N.日本 O.ボルネオ P.比島(※フィリピン) Q.馬来(※イギリス領マラヤ) R.露領極東地方(※極東ロシア) S.新嘉坡(※シンガポール) T.泰国(※タイ) U.浦鹽(※ウラジオストク) V.ビルマ W.アリウシヤン、アラスカ地方 X.枢軸国(X1獨(※ドイツ)X2伊(※イタリア)[62]。

第3期・第4期

1941年7月25日、米国は在米日本資産を凍結[63]、7月28日、日本軍がフランス領インドシナへ進駐し、8月1日、米国が石油禁輸措置等の日本に対する経済制裁を発動するという状況下の8月6日午前8時半[64]、統監部は第3期(仮想8月)課題[65][66][67]や「青国総力戦計画(内案)」を模擬内閣へ提示し方針を示した[68][69]。8月8日午後2時半、第4期(仮想9月)の条件が提示され[70]、8月11日午前10時[71]、第4期追加状況が発表された[72][73][74]。

第5期

8月12日、第5期(仮想10月)の情況が統監部から模擬内閣へ提示され、午後4時閣議が開催された[75]。13日に追加状況も提示された[76][77]。そこではX1(※ドイツ)の対A(※米国)開戦と’’ドイツから日本への対アメリカ戦即時参戦要求’’並びに米国による日本の物資輸出入への干渉を提示[78][79][80]、南進は対米・英・蘭長期消耗戦を招き日本の国力では対応できないと閣議は紛糾、大本営政府連絡会議で仮想12月1日以降のオランダ領東インド進駐を決めた[81]。

第6期

8月14日、第6期(仮想11月)演習状況及び課題が模擬内閣へ提示され、午後5時より閣議を開く[82]。統監部は1.D(※ソ連)X(※ドイツ(枢軸国))戦は酷寒到来と共に「ドン」河ならびに「モスクワ」及「レニングラード」東方地区に於て戦勢漸膠着せんとす 2.X(※ドイツ(枢軸国))B(※英国)戦は「スエズ」及「ジブラルタル」方面に進展せんとする兆候ある外大なる変化なし 3.A(※米国)X(※ドイツ(枢軸国))戦亦大なる発展なし、大西洋方面のA(※米国)兵力は一部太平洋方面に移動を開始せるものの如し。11月1日A(※米国)は対X(※ドイツ(枢軸国))宣戦せり [45] [83] [84]等の情況や米英による日本との経済断交を模擬内閣へ提示[85]、8月15日、閣議中止が命じられ堀場所員の指導があった後の午前11時45分、第6期追加状況である仮想1941年11月15日の前倒しのオランダ領東インド進出実行と、それによる船舶8万トン、原油21万トン、普通揮発油9万7千トン、重油18万6千トンの獲得が発表され[86][87][88][81]、十一月中下旬の情況に鑑みA(※米国)B(※英国)に対し準備完成次第好機を捕捉して先制開戦することを決意しつつ、之と平和的に外交交渉を続行することに決定す[45][89][90][81][91]と閣議決定した。

第7期の仮想日米開戦決定

8月16日午後1時[92][93]、第7期(仮想12月)の情況として米国のフィリピン水域での中立宣言と日本軍用船撃沈が統監部から模擬内閣へ提示され[94][95]、8月18日閣議が開かれた[92][96]。模擬内閣陸軍大臣が開戦を提案[97][98][99]、海軍大臣は、対米長期消耗戦は、国力上、日本必敗と論じ、他の閣僚もこれに同調し閣議は再び白熱化したが、首相の自重論により「対米・英戦備の充実に一層の努力を払いつつ、対蘭印進駐の成果の速かな獲得に邁進する」こととした[100]ため[101][102]、(然るに右の決定を以て統師部と連絡を開きたる所、戦力的判断に基き対A開戦に決し上奏御裁可を経たり)[102]と大本営政府連絡会議で模擬大本営の主張により仮想12月20日対米開戦が決定された[92][100]。模擬内閣興亜院総務長官はこの中にあって、海軍大臣は、「長期戦が予想される。海軍の保有する燃料はこれに耐えられない。戦争に突入して、南方燃料が入手されても補給路が長すぎ、順調な入手は期待されない。従って戦争は時期尚早である-」こんな意見を述べて動かない[103]と記している。卒論『総力戦』を書き、海軍大学校を主席で卒業した開戦反対論者の模擬内閣海軍大臣は[104]実際の日米開戦の際に無茶な戦争を始めたものだ[105]と述べたと模擬内閣警視総監はいう。模擬内閣海軍大臣は戦後結局戦争は物資が大きく物を言うのではあるまいかと思う。資源に乏しい我国が到底強大な米国等を敵にまわせるものではないと言う様なことを言った処、陸軍の所員から「出て行け」と憤激の一喝を喰った……後程私の先輩から君は憲兵隊名簿に赤印がついているから注意した方がよいとの忠告を受けた。私が反国家的要注意人物と言うのであろうか私にはどうもわからない[106]と述べている。堀場一雄所員の大和魂論へアメリカにもヤンキー魂があると反論し怒鳴り合いとなったが[107]、昭和56年、模擬内閣海軍大臣は精神論が国際社会の不信をもたらした満州事変以来の中国戦線拡大によりロンドン海軍軍縮会議で対米6割に制限されていた海軍力の既に疲弊していた国力の無い日本を勝てない戦争に至らしめる情勢にしたという批判の背景を記している[108][109]。

第七期(昭和十六年十二月)一、閣議決定事項概ね左の如し
(一)対AB戦備の充実に一層の努力を挮ひつつ対E進駐の成果の速かなる獲得に邁進すること(然るに右の決定を以て統師部と連絡会議を開きたる所、戦略的判断に基き対A開戦に決し上奏御裁可を経たり)[45] — 模擬内閣外務大臣、第一回総力戦机上演習外交戦経過記録[110][111][112]

猪瀬直樹は、1941年8月16日模擬内閣は日本必敗の結論に至り総辞職を目前にしていたとする[113]。

第8期

8月19日午後2時30分、第8期(仮想昭和17年1~3月)の情況及び課題のアメリカとソ連の接近が統監部から模擬内閣へ示され[114]、午後4時30分より閣議が開かれた。8月20日も閣議を開いた[115][116][100]。

第9期と結果

8月21日午後2時半、第9期(仮想昭和17年4~10月)の情況及び課題として[117]、アメリカ領フィリピン、オランダ領東インド、イギリス領マレー方面の米英軍を駆逐し、米国海軍の主力を撃破した中でのソ連の中立違反並びにドイツから青国(※日本)への対ソ連戦開戦の要求提示が統監部から模擬内閣へ示された[118][119][100][120]。8月22日追加状況「総机演第十三号ノ二」が発表され[121][122]、ソ連戦開戦の是非は閣議の一致に至らず、8月23日午前9時、追加状況「総机演第十三号ノ三」[123]が模擬内閣へ発表され、大本営政府連絡会議で対ソ連開戦が決定されたが、内閣改造が具申される状態であった[124]。

総机演第十三号ノ三…(一)昭和十七年九月下旬に至る状況

一、七月十日廟議は対D(※ソ連)開戦に決し八月一日作戦行動開始MD(※満州ソ連)国境付近に於ては各所に相当の戦闘を惹起せるも爾後大なる抵抗無くN軍(※日本軍)の急追のため九月下旬迄には極東陸軍の大半を壊滅し又其の海空軍の大部を撃滅すると共にR(※極東ロシア)要域を占領確保せりD国(※ソ連)は戦線を後退せしめ長期抗戦を呼号しつつあるも其の持久力は疑問なり(十三-十頁)

春季以来のX(※枢軸国)の対D(※ソ連)B(※英国)大攻勢はN国(※日本国)の作戦と相俟つて顕著なる効果を収めたるも未だ決定的ならず世界動乱の終局に関しては何人も予測を許さざる実状なり(十三-十二)[45][122][121][123]
一、七月の情況に於てD(※ソ連)に対し開戦すべきや否につきては、統師部の軍需所要量(物動ノ二、〇倍擴大修正)は我国力の許す所ならずとの見解有力にして、閣議の一致を見るに至らず
一、内閣強化案に関し審議したれども結論に至らず[45] — 外務大臣(※模擬内閣)、第一回総力戦机上演習外交戦経過記録,昭和十六年八月二十三日[125][126][127]

猪瀬直樹は十六年夏、彼らが到達した彼らの内閣の結論は次のようなものだったからである。十二月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けなければならないという「日本必敗」の結論を導き出したと述べている[128][60][129][18]。野中郁次郎は事実、彼らの分析結果は、後の太平洋戦争における戦局の推移を、真珠湾攻撃と原爆投下を除いてほぼ正確に予測していたのであると述べている[130]。

机上演習研究結果と講評の発表会

この演練の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された[131][57]。この場で「日米戦日本必敗」をいうことはできない[132]と述べた猪瀬は、「日米戦日本必敗」というストレートな表現は避けつつ、1941年11月24日提出されたリポート『国防上ニ於ケル物資労務及交通(昭和十六年度-第二回研究演録)』[133]の下敷きになるはずのものがこの発表の場で読み上げられたのだとしている[132]。……第六期演習末期の情勢に於て対米、英開戦問題を軽々に取扱いたるは不可なり……然れども第七期演習初期の情勢に於て尚対米、英開戦の決断に欠けたるは遺憾なり……との講評が研究所から発表された[134][135]。講評後、飯村所長は研究員へ机上演習中に書いた「第一回総力戦机上演習間ノ雑感」を配布している[136]。

研究会閉会に当たって東條は、参列者の意見として以下のように述べたという。

正面右手に東條陸相、研究所長、所員、左手に四人の宮殿下、これに対面して右側に研究生、左側に各省次官、局長、及び軍部の戦争指導担当者が参列した。演習員である青国政府の各大臣は、国力判定に資した厳密な判断を披露した。次いで総理担当の窪田研究生が、戦争は時期尚早の結論を堅持しながらも開戦に至る経過を開陳した。……東條陸相の後方末席にいた萩原所員(後駐仏大使)が、突然立ち上がった。「成田研究生、君の“対支占領地統治計画”を発表しなさい」……作業原稿を探して読み上げた。作業の主旨は“中国における占領地統治は軍政を廃し、民政に移行すべし”というにあった……このハプニングが終わるや否や、堀場所員が立って、「ただいまの成田研究生の発表は、統監部として採りあげたものではありません…」という意味の発言があった。私の作業の主旨が主旨だけに、軍国華やかな当時、ことに陸軍の最高幹部が見守る中で、予定にない作業発表をさせた萩原所員の勇気を忘れることができない。……東條陸相……最後に所見を述べられた。「このたびの机上演習について、研究生諸君の労を多とする。これはあくまで演習であることを銘記してもらいたい-」と言い残して席をたった。[137]
研究二日間にわたり最も熱心に傍聴していた東条陸相は、最後に、参列者の意見として一言ふれた。「このたびの机上演習について、研究に関する諸君の努力は多とするが、これはあくまで演習と研究であって、実際の作戦とは全く異なることを銘記しておいてもらいたい」と。[138]
以下の東條発言はどこにも記録されていない。研究生それぞれの記憶の奥底にしまい込まれていたものを重ね、総合し、ほぼ正確に復元させたものである。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますツ」[139]

総力戦第一回総合研究

1941年10月28日・29日総力戦第一回総合研究では各自の見解が求められ、第一回机上演習海軍大臣であった研究員は、南方進出は全面戦争となり持久戦に陥り国力の消耗は長期戦遂行困難に逢着すると想定、日ソの万一の勃発を想定した。判事の研究員は、世界動乱で日本国民は塗炭の苦しみを味わい、東亜新秩序建設で国力を回復後、再び対米抗争となると想定した。陸軍大尉の研究員は、世界は三大ブロックに分かれ、大東亜共栄圏を目指す日本の長期総力戦の続行と米国ブロックと欧州ブロックとの一大決戦を想定した[140]。

最近の研究

経済史学者の牧野邦昭によれば、総力戦研究所は最初から「官僚の訓練施設」「各省庁の割拠主義を克服するための機関」としか位置づけられておらず、演練による研究成果を政策に活かすということは考えられていなかったとし、当時参謀本部の欧米課課員だった杉田一次が、上記8月の演練について「われわれの関知するところではなかった」と述べ、設立を推進した西浦進もあくまで教育機関としての評価しかしておらず、総力戦研究所という名称ではあっても実体は「教育機関」だったからこそ自由な議論ができた一方、教育機関であるがゆえに研究成果を政策に反映させることが出来なかった、としている[26]。

また牧野によると、総力戦研究所で米英との開戦を想定して作った資料には、長期戦になればアメリカの経済力が優位に立つものの、開戦当初における日本の武力的優位性やアメリカ国内の民族問題、思想問題の存在により「長期戦にならざる限り」対米戦に勝利の見込みがあるとされており[141]、また、日米開戦直後の1941年(昭和16年)12月25日には、「大東亜戦争」を遂行後にはソ連との戦争が控えているとして、対ソ戦に向けた国力整備が必要であるとする演練の結果を提言しているなど[142][143]、様々な内容の提言をしているため昭和16年8月の演練のみに注目するのは問題があり、その研究成果がかなり過大に評価されている面があるとしている[26]。

戦後の極東国際軍事裁判では、総力戦研究所の研究内容が現実の戦局にかなり近かったため、総力戦研究所が政府の日米戦争開戦に寄与したのではないかと問いただされたが、結局その事実は無いと、初代所長の飯村穣と所員の堀場一雄が主張し、告発は立証されなかった[61][130]。

一方で、総力戦研究所は「大学院大学」として、戦後に活躍する人材の育成に役立った[144]。

模擬内閣 閣僚名簿

(1941年7月12日組閣)[145]

  • 内閣総理大臣 - 窪田角一(産業組合中央金庫参事・調査課長)
    • 内閣書記官長 - 岡部史郎(衆議院速記課長、のち国会図書館副館長)
    • 法制局長官(兼) - 三淵乾太郎(東京民事地方裁判所判事)
  • 外務大臣 - 千葉晧(外務省東亜局)
    • 外務次官(兼) - 林馨(在上海日本大使館三等書記官)
  • 内務大臣 - 吉岡恵一(内務省地方局)
    • 警視総監 - 福田冽(内務省計画局)
  • 大蔵大臣 - 今泉兼寛(大蔵省主税局)
  • 陸軍大臣 - 白井正辰(陸軍省・陸軍大尉)
    • 陸軍次官 - 岡村峻(陸軍省・陸軍主計少佐)
  • 海軍大臣 - 志村正(海軍省・海軍少佐)
    • 海軍次官 - 武市義雄(海軍省・海軍機関少佐)
  • 司法大臣 - 三淵乾太郎
  • 文部大臣 - 丁子尚(文部省宗教局宗教課)
  • 農林大臣 - 清井正(農林省官房文書課)
  • 商工大臣 - 野見山勉(商工省総務局)
  • 逓信大臣 - 森巌夫(逓信省官房総務課)
  • 鉄道大臣 - 芥川治(鉄道省運輸局)
  • 拓務大臣 - 石井喬(拓務省拓南局)
  • 厚生大臣 - 三川克巳(厚生省職業局)
  • 企画院総裁 - 玉置敬三(商工省物価局第二部化学課長)
    • 企画院次長または部長 - 中西久夫(東京府庁、内務官僚)、酒井俊彦(大蔵省理財局)、千葉幸雄(日本製鐵総務部福利課、途中退所)、保科礼一(三菱鉱業労務部)、前田勝二(日本郵船企画課書記)、矢野外生(農林省官房文書課)
  • 情報局総裁 - 秋葉武雄(同盟通信社編輯局東亜部)
  • 対満事務局次長 - 宮沢次郎(満州国総務庁参事)
  • 興亜院総務長官 - 成田乾一(済南特務機関)
  • 朝鮮総督 - 日笠博雄(朝鮮総督府殖産局)
  • 日本銀行総裁 - 佐々木直(日本銀行資金調整局書記[146])
  • 大政翼賛会副総裁 - 原種行(東京高等学校教授)

歴代所長

第三期生を送り出して以降は所長職は無く、所長心得が代行した[147]。以下の表の出典は[14]。

さらに見る 代, 氏名 ...
代氏名階級在任期間出身校・期前職後職
1飯村穣陸軍中将1941年1月11日 - 10月10日陸士21期参謀本部附第5軍司令官
2岡新
(所長心得)
海軍少将1941年10月10日 - 11月1日海兵40期海軍省軍務局御用掛
兼 総力戦研究所主事
支那方面艦隊司令部附
3遠藤喜一海軍中将1941年11月1日 - 1943年3月9日海兵39期軍令部出仕第一遣支艦隊司令長官
4村上啓作陸軍中将1943年3月9日 - 12月16日陸士22期参謀本部附陸軍公主嶺学校長
5小川貫爾海軍少将1943年12月16日 - 1945年1月20日海兵43期海軍省軍務局御用掛
兼 総力戦研究所員
支那方面艦隊司令部附
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初代所長飯村穣

1941年10月10日、飯村穣は第五軍司令官転補の発令を受け、職員・研究員に非常に惜しまれながら転出、後任に海軍の遠藤喜一中将が着任した [148]。

  • <大蔵大臣>の今泉兼寛は「演習中、模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」と証言している。[149]
  • 昭和56年、模擬内閣総理大臣を担当した窪田角一は、飯村所長から受けた人生観は生活の中の大きな力となったと綴っている[150]。
  • 閑院宮春仁王は、かつて教えを受けた飯村穣所長を慕って入所を希望し、閑院宮載仁親王の頼いで聴講生となった[151]。
  • 昭和51年、模擬内閣通信大臣を担当した森巌夫は、あまりに超理論的な講義には、ついてゆけないと思った自分も、所長の人柄と熱意に対しては常に頭が下る思いであった。と述べている[152]。
  • 昭和56年、第一期生の保科礼一は、……入所してまず飯村所長のお人柄、もののお考え方に深い感銘を与えられた。と述べている[153]。

脚注

関連文献

関連項目

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