義尋
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物。足利義昭の嫡子
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生涯
元亀3年(1572年)8月15日、室町幕府の15代将軍・足利義昭の長男として、京都で誕生した[2]。 母は赤松政秀の娘・さこの方[3]。幼名は不詳で、当時の史料には「若君」「大樹(将軍)若公」などと記されている(以下、僧名の義尋で統一)[2][4]。
義尋は庶出であったが、父の義昭には正室がいなかったので嫡子とされ、足利将軍家の後嗣として養育された[5]。
元亀4年(1573年)4月、義昭は織田信長と対立したことで、居所の二条御所が織田軍の攻撃を受け、勅命講和した(二条御所の戦い)[6]。その際、義尋が信長に人質として差し出されたが、ほどなくして義昭のもとに返された[7]。
7月、義昭は再び信長と対立し、宇治の槙島城に籠城するも、信長の攻撃を受けて降伏した(槇島城の戦い)[8]。その際、義昭は信長に義尋を人質として差し出し、京都から追放された[9]。
だが、信長は義昭の追放後、足利将軍家を否定せず、義尋を新将軍として擁立する姿勢を見せ、諸大名に参礼を求めた[10]。事実、信長は毛利氏に対し、「来年からの年頭儀礼は義昭の子である義尋にするべきだ」と、義昭の復帰交渉に訪れた安国寺恵瓊を通して伝えている(『吉川家文書』)[10][11]。また、信長は朝廷に要請し、年号を元亀から天正に改元させているが、これは義尋への代替わりのためとする見方がある[12]。
信長のこうした行動は、かつて細川高国が足利義稙を追放したのち、幼い足利義晴を新将軍に擁立し、改元を実行させた先例に倣った可能性がある[12]。義昭を追放したことで、組織としての室町幕府は事実上消滅したが、名目上も幕府機構を完全に消し去ってしまうと反織田勢力に名分を与えてしまうため、一定の格式を義尋に与える意図があったと推察される[11]。
だが、信長は結局、義尋を将軍として立てることはなかった[13]。当時の史料には「公家は大樹(将軍)若公御上洛と言った」と記述されており、信長が義尋を義昭に代わって将軍に擁立し、信長がその上位に立つ構想を持っていたものの、朝廷が信長の強大化を嫌い、拒否したとする見方がある[14]。他方、毛利氏が義昭を奉戴していたことから、義尋を新将軍にすると和睦に応じなくなる可能性があったため、信長はあえて擁立しなかったとする見方もある[13]。
天正4年(1576年)2月、父の義昭が毛利氏の領国である備後の鞆に下向したが、その理由を信長が義尋の擁立を放棄したことを見定めたためとする見方がある[15]。また、5月に安芸の毛利輝元、越後の上杉謙信が反信長として立ち上がったが、彼らもまた同様に、信長が義尋の擁立を放棄したことに反発したためとみられる[15]。
天正15年(1587年)8月2日、義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決まり、同月28日に奈良に下向して入室し、得度した[16]。これは、豊臣秀吉の九州平定において、父の義昭が島津氏との和睦に尽力したため、秀吉が功賞としてその意向を汲んだからとされる[16]。
慶長2年(1597年)8月28日、父の義昭が死去すると、9月14日夜に義尋は焼香に訪れている[17]。
やがて、義尋は興福寺の大僧正にまでなるが、のちに還俗し、足利 高山と名乗った[18]。古市胤子を妻に迎えたとされ、2人の子を儲けて、それぞれ実相院門跡と円満院門跡になった[5][注釈 3]。
系譜
義尋の息子らはみな、女人を断ち、子をもうけなかったため、足利将軍家の嫡流は断絶した[5][19]。
なお、義尋の子の系譜をめぐって諸説あり、『足利市史 上巻』所収の「坂本氏系図」では、義尋や永山義在が登場せず、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』の「永山氏系図」では、義尋の子とされる実相院義尊や円満院常尊が一色義喬の弟で、義昭の子と表記されている。義尊や常尊を義昭の子と記述する系図について、奥野高広は『系図纂要』にも見られるとしている。ただし、「永山氏系図」では、義尋は僧でありながら子供をもうけた罪で、寺を追い出されたとされている。それが原因で不埒者の義尋が「坂本氏系図」より削除されているために、同系図で義尊や常尊、義喬が義昭の子のように記述された可能性がある。このため、実は一色義喬が「義昭の孫、義尋の私生児」の可能性も少なからずあるが、客観的な史料はない。