義順公主
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出自
第9代朝鮮国王成宗の玄孫である錦林君李愷胤(1591年 - 1673年)の三女として産まれる。生母はその継室慎夫人文化柳氏(1594年 - 1668年)。
政略結婚へ
1650年1月、新しく北京に入城し、朝鮮の新たな宗主国となった清の最大の権力者摂政王ドルゴンは正妃の嫡福晋博爾済吉特(ボルジギト)氏が亡くなると、朝鮮に遣いを出し、朝鮮国王孝宗に継室にふさわしい女性を選ぶよう要請した。結婚相手は王族か大臣の娘でよいとした[1]。使節の戸部尚書バハナが朝鮮に到着したとき、対応した役人の羅福は、孝宗の娘はまだ2歳であると説明した為[注釈 1]、バハナは王族の娘も結婚相手として考えられると提案した。20日後、朝鮮国王・成宗の子孫である錦林君李愷胤の娘である李愛淑が朝鮮国王・孝宗の養女としてドルゴンの妻に選ばれ、同時に李愛淑は朝鮮国王・孝宗によって義順公主と名付けられた[2]。
公主が北京に到着して間もなく、ドルゴンは公主とその侍女たちの醜さを批判し、朝鮮側が不誠実であるとなじった[3]。 7ヵ月後、ドルゴンは狩猟中に亡くなった。その後、公主はドルゴンの甥のボロと結婚した。しかし、1652年には彼もすぐに亡くなり、彼女は未亡人となった。