自灯明、法灯明
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自灯明・法灯明(法燈明・自燈明、じとうみょう・ほうとうみょう)、もしくは、自州・法州(じしゅう・ほうしゅう、じす・ほっす、巴: attadīpa, dhammadīpa)は、仏教における釈迦の教えを表す言葉。
なお、経典内で当該語彙が用いられる直後に、同じ意味で自帰依・法帰依(じきえ・ほうきえ、巴: attasaraṇa, dhammasaraṇa)という語彙も用いられているため、これが同じ概念を表す同義語として使用されることもある[1]。
下述するように、元来は瞑想修行において、四念処(身・受・心・法)の観察(「自」(身・受・心)と「法」の観察)を拠り所とし、それを通して、世間(現象世界)の無常・苦・無我(三相)(あるいは、それに不浄を加えたいわゆる四不顛倒)を徹底的に観得すること、そしてそれを通して煩悩の遮断と涅槃への到達へと向かうことを諭す教えだが、近代に入って南方上座部仏教圏から『南伝大蔵経』や中村元、増谷文雄らの翻訳書などを通じてこの概念が輸入・普及された近代日本においては、大乗仏教・北伝仏教では途絶えてしまった仏教本来の瞑想体系が理解されていなかったこともあり、多くの仏教僧侶や仏教学者の間で、この概念が「自分自身と仏法を拠り所とする」ことを意味しているという誤った理解・用法が広まり、定着してしまっている。
概要
この言葉は『大般涅槃経』内の一説としてよく知られている。『転輪王経』もこの言葉を知る手がかりになる[2]。
相当する漢訳のテクストは、『長阿含経』や『雑阿含経』内に見られるが[3]、近代以前の大乗仏教・北伝仏教の歴史において、注目されることは無かった。
『大般涅槃経』では、釈迦の最後の遊行の道中、ヴェーサーリー近郊のベールヴァ村で雨安居を行った際に説かれたものとして記述されている。『輪転王経』では、それ以前の遊行において、マガダ国のマトゥラーに滞在した際に説かれたものとして記述されている。
どちらも記述内容は同様であり、四念処(身・受・心・法)の観察(「自」(身・受・心)と「法」の観察)を、瞑想修行の要として拠り所とすることを説く文脈でこの言葉・概念が用いられている。
ここで「灯明(燈明)」とか「洲(島)」とかと訳されている言葉は、パーリ語で言うところの「dīpa」であり、上座部仏教圏では後者の「洲(島)」の意味で解される[3]。伝統漢訳経典では、『雑阿含経』で「州」と訳されており、『南伝大蔵経』でもそれに則って「州」と訳され、増谷文雄も『阿含経典』等で同じく「州」と訳している。中村元によるパーリ経典版『大般涅槃経』の翻訳では、同義だがより分かりやすく「島」と訳されている[3][4][5]。
他方で、同じ伝統漢訳経典でも、『長阿含経』では「dīpa」を「熾燃(しねん)」と訳しており、類語で日本伝統仏教においてはより馴染み深い語でもある「灯明」も、出所不明ながらとっつきやすい訳語として普及し、現在ではむしろこちらの訳語の方が主流となってしまっている[3][4]。仏教伝道協会が配布している『仏教聖典』では当該語彙を「灯火(ともしび)」と訳している[6]。