台与
日本の古墳時代の人物、邪馬台国の女王
From Wikipedia, the free encyclopedia
表記・読み
事跡
魏志倭人伝によると、
とされる。 張政が倭に渡った正始8年(247年)から、卑弥呼の死と台与の王位継承は、それ程年月が経っていないと思われる。「当時」という表現から、張政が倭に来た時には既に台与が即位していたとも考えられる。
『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注』(現存せず)に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)10月に倭の女王の使者が通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。『晋書』武帝紀では266年11月5日(ユリウス暦同年12月18日)[3]、同・四夷伝では文帝の時代(255-265年)及び武帝の泰始の初め(266年か)に倭人が朝貢したことが書かれている。武帝紀には「倭人」としか書かれていないが、四夷伝では「女王」が主語のように読め、266年には「訳を重ねて」ともある[4]。卑弥呼が死んだのは遅くとも249年(正始10年)である(『梁書』)ことから、この倭国女王は台与のことであると考えられている。なお『晋書』宣帝紀にも「正始元年(240年)春正月東倭重譯納貢」とあり、「訳を重ねて」「東倭[5]」の使者が納貢したと書かれており、『日本書紀』の崇神天皇12年にも異俗の人々が「訳を重ねて」来たとあるが関連は不明である。
この朝貢の記録を最後に中国の史書から倭国に関する記録が途絶える。『梁書』諸夷伝は台与の後に男王が立ち、並んで中国の爵命を受けたと記すが年代は書かれていない。次に倭の記録が現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。