芹沢 (茅ヶ崎市)

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芹沢
谷戸の家(旧常盤邸跡)
北緯35度22分39.42秒 東経139度25分6.34秒 / 北緯35.3776167度 東経139.4184278度 / 35.3776167; 139.4184278座標: 北緯35度22分39.42秒 東経139度25分6.34秒 / 北緯35.3776167度 東経139.4184278度 / 35.3776167; 139.4184278
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川県
市町村 茅ヶ崎市
人口情報
 人口 2,211 人
 世帯数 545 世帯
郵便番号 253-0008
市外局番 0467
ナンバープレート 湘南
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プロジェクト 日本の町・字
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芹沢(せりざわ)は、神奈川県茅ヶ崎市の地名である。江戸時代の名称は芹沢村。明治22年(1889年)の町村制の施行に伴い小出村大字となり、戦後1954年茅ヶ崎市編入された。[1]時習学舎を母体とした茅ヶ崎市内最古の小学校、小出小学校がある。

緑地が多く、中央部には神奈川県立茅ヶ崎里山公園が存在。園内の谷戸の家(旧常盤邸跡)では、伝統文化体験のイベントが開催されている。谷戸の家(旧常盤邸跡)周辺には茅ヶ崎市内唯一の(一寸峠)が現存、傍には常盤八郎兵衛らが文政7年(1824年)に建立した庚申塔がある。

隣村に行谷村(約120石)が存在。かつては芹沢村(草分け後、約750石)の一部であったが、後北条氏の時代に行谷藤五郎が領したため、芹沢から分かれて行谷村となった。行谷村一の地主であり近衞兵も輩出している野中家は芹沢村の常盤家から入夫している。寛永10年(1633年)、幕府領旗本小沢知行。元禄10年(1697年)・幕末ともに旗本戸田・小澤知行。飛地3石が香川村に存在。戸田家当主は義陳-政則-政豊-政任-尹永-勝信、小沢家当主は忠重-忠秋-重秋-重成-秋邦-成紀-重著-重光。[2]小沢家初代の小沢忠重は、松平次郎右衛門重吉の三男であり、徳川家康より小沢の姓を受けた。徳川家康に仕えて小牧・長久手の戦いで武功を挙げ、後御使番となる。文久2年(1862年)、地方役人を務めた常盤八兵衛ら6名が伊勢参りに詣ている[3]明治元年(1868年)、神奈川府を経て神奈川県に所属。昭和5年(1930年)8月には関東学院大学の理事を務めた常盤嘉治がセルツメント(19世紀末英国で始まった、知識階級貧困階級の子弟と共に生活をすることで教育・生活支援を行う社会事業)活動として、12名の教授と貧困地域の学生30名を連れて芹沢柳谷の自邸へ招待。午前中は勉強や運動、夜はキャンプファイヤーなどを行った。[4]

鎮守腰掛神社。ほか神明社、山王社。寺院は日蓮宗長重山法円寺、同宗弁財山蓮妙寺(建立元亀3年/1572年)、浄土宗芹沢山来迎寺(創建永禄7年/1564年)、曹洞宗恵日山善谷寺(創建天正6年/1578年)、他来迎寺の寮として延命寺(地蔵堂)、光照山普門寺(再建元和3年/1617年。天文9年/1540年兵火にて失す。元和3年再建と記載あり)。

谷戸(現・小字)は薬師ヶ谷、菩堤久保、堀之内、清水谷、大久保、久保山、前芹沢、柳谷、下馬、矢崎、紺屋村(こうやむら)、仲之谷、堂坂、細谷(ほそやと)、冠木(かぶき)、大谷、三軒大谷。[5]

文禄3年(1594年)検知によると、屋敷地名請人65名、総坪数9,674坪うち300坪以上の屋敷地23人、知行主の屋敷地は3筆720坪[6]助郷は文政3年(1820年)、藤沢宿加助郷をつとめている[7]17世紀中期の村絵図によると、家数は戸田知行36軒、小澤知行19軒。安政2年(1855年)の家数118軒、人口643人、馬16疋。うち戸田知行79軒、428人、馬11疋、小沢知行39軒、215人、馬5疋。明治19年(1886年)人口589人。明治18年(1885年)創立の芹沢学校の生徒数32人、教員数1人[8]。明治24年(1891年)の戸数144戸、昭和30年(1955年)世帯数179世帯、人口1,158人。昭和55年(1980年)世帯数545世帯、人口2,211人[9]

明治36年(1903年)小出小学校が新築移転。昭和22年(1947年)小出中学校開校。昭和51年(1976年)小出中学校閉校。昭和53年(1978年)市役所小出支所が新築移転。平成8年(1996年)相模川左岸[10]の土地改良実施[11]

名主

  • 田城家(戸田 市左衛門知行所)
  • 常盤家(小沢 牛右衛門知行所) - 屋敷跡は現在神奈川県立茅ヶ崎里山公園の「谷戸の家」。
  • 塩川家

伝承

ぎゃーぎ婆さんの伝承

武田勝頼長篠の戦いからなる一連の戦いに敗れ、その家臣が武田家ゆかりの寺院がある相模の国(現・神奈川県)に落ち延びて定住。その中の女医が今宿村や芹沢村の村人の治療に尽くし、ギャーギ婆さんとして慕われた。今宿村(現・神奈川県茅ヶ崎市今宿)や、芹沢村(神奈川県茅ヶ崎市芹沢)普門寺にその像が残る[12]

戦国時代、甲斐の国を支配する大名、武田勝頼家臣土屋惣蔵昌恒(つちや まさつね)と言う武将がいた。伝承によると、想庵がという男が医者として仕えており、妻である英子も同じく医者であった。[13]。英子は夫より、もしものことがあれば土屋惣蔵昌恒の息子昌太郎を連れて、相模国今宿村にある武田家ゆかりの寺へ落ち延びてほしいとの言い付けを受けていた。[14]のちに武田方は織田徳川連合軍の攻撃を受け、主君武田勝頼天目山の戦い(天正10年/1582年3月11日)に敗れて自害土屋惣蔵昌恒も討死。この戦いで想庵も殉職したとされる。英子は夫想庵の言い付け通り昌太郎を連れて相模国今宿村に落ち延びた。今宿村で溺れていた大百姓の子に今でいう人工呼吸をして救ったことから、近郷近在でも有名な医者となり多くの村人を救った。彼女が治療の際に「ギャーギ、ギャーギ」と唱えたため、地域の人は愛称をこめて「ギャーギ婆さん」と呼んだ。彼女は仏国寺に住み、昌太郎も仏国寺の住職から教育を受けた[15]。現在、仏国寺は廃寺となったため跡地の一角にギャーギ婆さんの像(大きさおよそ50センチ、有髪で羽織を着ている姿)が保存されている。また、彼女の徳を忍んだ芹沢村でも彼女の像(およそ50センチ、老婆の形。)が残る。現在も咳の人や、喘息の人が平癒祈願をするほか治った際には、お手所に梅干をのせて御礼参りをしている。[16]

旧跡・観光スポット

指定文化財

芹沢祭囃子。旧囃子とも呼ばれ茅ヶ崎市内では唯一芹沢地域にのみ伝わる。大庭城のあった大庭(藤沢市)より伝わったとされ、曲目は鎌倉、屋台(やてい)、仕丁舞(しっちょめ/ひっちょめ)、昇殿、宮昇殿の5曲が残る。屋台の構成は打ち込み(ぶっこみ)-地(ぢ)-玉(たま)-地(ぢ)-けいちげ-地(ぢ)-上がりから成る。打ち込みは1人の小太鼓と篠笛から始まるパートであり、地はメインである。基本的に大太鼓1つ、小太鼓5つ、篠笛、鉦(かね)で演奏される[21]鎌倉時代に太鼓・笛・鉦などが武士の嗜みとされ、雅楽と対の「俗楽」として広がった。

他地域には「鎌倉攻め」や「鎌倉固め」と呼ばれる曲目も残るが、芹沢地域ではこれらの曲目は演奏されていない。「鎌倉攻め」は1333年に新田義貞により、鎌倉幕府ならびに北条一門が滅ぼされたことを表す曲目。 「鎌倉国固め」は、鎌倉が攻められた際、7つの切り通しを最期まで守ったことを表した曲である。『太平記』によると、この戦いで執権北条高時に続いて北条家支流である名越家赤橋家常盤家などの当主が自害したとされる[22]

平成10年(1988年)3月に解散。

芹沢焼き米つき唄

めでたいここの神棚に 唐金で固めた恵比寿・大黒

めでたい事が重ね来る 嫁は取る妹は縁につきたよ

鎌倉殿は碁を打てば金の碁盤 金の碁盤そろえる[21]

寺小屋

善谷寺(曹洞宗)、蓮妙寺(日蓮宗)、他2軒[24]

参考文献

脚注

関連項目

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