菊池武澄

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菊池 武澄(きくち たけずみ、生年不詳~延文2年(正平12年・1357年)7月17日没)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将

菊池氏第12代当主・菊池武時の六男で、菊池武重の六弟で、菊池武敏菊池武光菊池武士菊池武義の六兄。

通称が六郎で、本人及び長男の菊池武安の家系に付いては、官途の肥前守を代々名乗っている。

次男の菊池武元に付いては、詫磨氏の祖で、來孫の詫磨武包肥後菊池氏当主に成っている。

建武の新政のとき、父の菊池武時の戦功に由り、後醍醐天皇から肥前守に任じられた。

貞和4年(正平3年・1348年)に、十弟の菊池武光と共に、後醍醐天皇の皇子の鎮西宮懐良親王肥後国菊池郡に迎えて、征西府を開く事に尽力している。

征西府を開いた後は、懐良親王を擁して菊池武光や阿蘇惟澄と共に、鎮西地方に居る北朝軍と戦い、各地で破っている。

下妻郡溝口城の戦い

観応2年(正平6年・1351年)に、筑後国下妻郡溝口城を攻略している[1][2]

御笠郡針摺原の戦い

文和2年(正平8年・1353年)2月2日に、筑前国御笠郡針摺原で、一色道猷を撃破している[3][4]

豊後大分国府の戦い

文和4年(正平10年・1355年)に、大友氏泰が居る豊後大分国府に侵軍して、南朝・征西府が鎮西地方を統一する為の戦いに明け暮れている[5]

一色道猷に付いては、鎮西地方から長門国に退却して鎮西管領の地位を捨てている[6][7]

病気で死去

延文元年(正平11年・1356年)6月初旬に病に倒れたので、平癒を祈って寺院を建立しようとしている。

6月29日に病気が平癒する事を祈願する文書を作成した[8]

11月3日に、病状が良好な状態だと存命中に最後の文書を作成している[9]

延文2年(正平12年・1357年)7月17日に、菊池武澄が死去した文書に付いて、十弟の菊池武光が作成している[10]

死去した後で、菊池武澄の妻によって紫陽山廣福寺が完成している。

大正13年(1924年)2月11日、従三位を贈られた[11]

系譜

  • 曾祖父:菊池武房(1245-1298)
  • 曾祖母:右京大夫光資の娘(????-????)
    • 祖父:菊池隆盛(1271-1293) - 菊池武房の長男。
    • 祖母:式部大輔家愛の娘(????-????)
      • 伯父:菊池時隆(1287-1304) - 菊池隆盛の長男。
      • 実父:菊池武時(1292-1333) - 菊池隆盛の次男。
      • 実母:不詳(????-????)
        • 長兄:不詳(????-????) - 菊池武時の長男。
        • 次兄:菊池武重(1307-1341) - 菊池武時の次男。
        • 三兄:菊池頼隆(????-1333) - 菊池武時の三男。
        • 四兄:菊池隆舜(????-1333) - 菊池武時の四男。
        • 五兄:菊池武茂(木野武茂、????-????) - 菊池武時の五男。
        • 本人:菊池武澄(????-1357) - 菊池武時の六男。
        • 七弟:菊池武吉(????-1336) - 菊池武時の七男。
        • 八弟:菊池武豊(赤星武生、????-????) - 菊池武時の八男。
        • 九弟:菊池武敏(????-1357) - 菊池武時の九男。
        • 十弟:菊池武光(1319-1373) - 菊池武時の十男。
        • 十一弟:菊池武隆(1320-????) - 菊池武時の十一男。
        • 十二弟:菊池武士(1321-1352) - 菊池武時の十二男。
        • 十三弟:菊池武尚(????-1362) - 菊池武時の十三男。
        • 十四弟:菊池武義(????-1377) - 菊池武時の十四男。
          • 長男:菊池武安(????-1377) - 菊池武澄の長男。
          • 次男:託磨武元(????-????) - 菊池武澄の次男。
            • 孫:託磨守武(????-????) - 託磨武元の長男。
              • 曾孫:託磨安春(????-????) - 託磨守武の長男。
                • 玄孫:託磨武安(????-????) - 託磨安春の長男。
                  • 來孫:菊池武包(1504-1532) - 託磨武安の長男。

脚注

参考文献

外部リンク

関連項目

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