菊池武時

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 鎌倉時代末期
生誕 正応5年(1292年
改名 正竜丸、次郎、寂阿[1]
 
菊池 武時
菊池武時/菊池容斎画『前賢故実』(明治時代
時代 鎌倉時代末期
生誕 正応5年(1292年
死没 元弘3年/正慶2年3月13日1333年4月27日[1]
改名 正竜丸、次郎、寂阿[1]
戒名 広福院真空寂阿
墓所 首塚:福岡市中央区六本松の菊池霊社
胴塚:同市城南区七隈の菊池神社
官位従一位1902年〈明治35年〉11月12日
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 菊池氏
父母 父:菊池隆盛
頼隆武重武茂武澄隆舜武吉武義武光武尚武士武隆武敏武豊、乙阿迦丸[1]
テンプレートを表示

菊池 武時(きくち たけとき)は、鎌倉時代末期の武将菊池氏の第12代当主。菊池隆盛の次男。第10代当主・菊池武房の孫で、第11代当主・菊池時隆の弟にあたる。

家督相続

幼名は正龍丸。父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の菊池武本がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武本が共に滅んだため、幼少の身で家督を継いで当主となった。菊池十二代の責務から、祖父伝来の弓矢の道に励むと共に文学を嗜むなど、幼少の頃から修養を積んだ。

南北朝の内乱

この頃の九州は、元寇の後に鎮西探題が設置され、北条氏による支配が強化されており、御家人達の不満は募っていた。

元弘3年/正慶2年(1333年)年關2月、隠岐島を脱出した後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒の軍を召集。これに呼応して吉野にあった天皇の皇子護良親王も全国の武士に令旨を下し決起を促した。この状況のもと、九州では日増しに鎮西探題北条英時追討の機運が盛り上がってきた[2]

九州における反北条の中心人物は菊池武時で、彼は3月14日を期し、かねてから密約のあった大友貞宗少弐貞経らとともに鎮西探題攻撃を計画していた[2]

これを察知した北条英時は、逆に九州の御家人を博多に招集し、その中に後醍醐天皇方に味方するものがあれば、未然に討ち取ることを企てた[2]

菊池武時の挙兵

元弘3年/正慶2年(1333年)3月11日、博多に到着した武時は、翌12日に鎮西探題館に出仕し到着人の名簿に記入しようとしたところ、侍所から遅参を理由に拒否され口論となった。探題方は武時が反幕府の中心であるとの確証を握り、わざと武時を挑発したのであろう[3][2]

武時は攻撃計画が洩れたことに気づいたためか、12日夜に一族一門を集め、14日の手筈を13日に変更することを告げ、大友貞宗、少弐貞経に使者を使わし、挙兵に加わるように促した。しかし両者の反応は冷たく、少弐貞経は堅粕(福岡市博多区・東区)で菊池の使者を斬り、大友貞宗も使者を斬ろうとして逃走された。両者共に時期尚早とみて、菊地との密約を隠すための行動であった[2]

翌13日午前4時頃、菊池一族はいっせいに博多の町へ出撃し、所々に火をつけて焼き払いながら鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に討たれた。享年42。一族200名あまりの首が犬射馬場に懸けられた[3][2][4]。この首骨は福岡市営地下鉄の工事にともなう文化財発掘調査で出土し、菊池神社に保管されている[2]

その後の鎮西探題

この挙兵の有様は訴訟のために京都から鎮西探題に派遣されていた僧の良覚によって目撃され、『博多日記』に書きとどめられた[3]。武時は探題で行われた裁判で敗訴していた事も挙兵の遠因とされている。その性急な挙兵は少弐氏大友氏の支持を得られず、自滅する結果となるが、武時の探題襲撃は九州における討幕運動の契機となり、この2ヶ月後の5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、その3日後に大友貞宗、少弐貞経ら九州の武士達は倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼすことになる。

楠木正成の「忠厚」論

武時の曾孫である菊池武朝が著した『菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武時が元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、千早城の戦い等で活躍した武将楠木正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという[5]。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である[5]。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である[5]。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた[5]。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという[5]

この「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」[注釈 1]つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している[5]

建武政権により肥後守に

武時の後を継いだ菊池武重は恩賞として肥後一国を与えられた。

人物

贈位

注釈・出典・参考文献

Related Articles

Wikiwand AI