菊池武房
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文永11年(1274年)の文永の役では弟の赤星有隆と共に上陸して、赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。
文永10年(1273年)5月に執権と連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事に由り、鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。
弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞が無く、武房は反幕府へ傾いていたという。
弘安の役から17年後の永仁6年(1298年)8月27日に54歳で死去した。長男の菊池隆盛が早世している事に由り、孫で隆盛の長男の菊池時隆が跡を継いだ。