菊池武房

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時代 鎌倉時代中期
生誕 寛元3年(1245年
別名 次郎
 
菊池武房
蒙古襲来絵詞』で元寇防塁に座る武房
時代 鎌倉時代中期
生誕 寛元3年(1245年
死没 永仁6年8月27日1298年10月3日
別名 次郎
官位従三位(1915年)
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王
氏族 菊池氏
父母 父:菊池隆泰
母:中将隆政の娘
兄弟 直隆頼隆武房赤星有隆隆顕
隆冬康成重宗
右京大夫光資の娘
隆盛[1]甲斐武本堀川道武長瀬武成
島崎武経迫間武門重富武村
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菊池 武房(きくち たけふさ、寛元3年(1245年)~永仁6年(1298年)8月27日)は、鎌倉時代中期の武将菊池氏の第10代当主。

第9代当主・菊池隆泰の三男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。

文永11年(1274年)の文永の役では弟の赤星有隆と共に上陸して、赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。

文永10年(1273年)5月に執権連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事に由り、鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。

弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞が無く、武房は反幕府へ傾いていたという。

弘安の役から17年後の永仁6年(1298年)8月27日に54歳で死去した。長男の菊池隆盛が早世している事に由り、孫で隆盛の長男の菊池時隆が跡を継いだ。

大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた[2]

脚注

参考文献

外部リンク

関連項目

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