Wikiwand AI

菊池武房

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 鎌倉時代中期
生誕 寛元3年(1245年)
別名 次郎
 
菊池武房
『蒙古襲来絵詞』で元寇防塁に座る武房
時代 鎌倉時代中期
生誕 寛元3年(1245年)
死没 永仁6年8月27日(1298年10月3日)
別名 次郎
官位 贈従三位(1915年)
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王
氏族 菊池氏
父母 父:菊池隆泰
母:中将隆政の娘
兄弟 直隆、頼隆、武房、赤星有隆、隆顕
隆冬、康成、重宗
妻 右京大夫光資の娘
子 隆盛[1]、甲斐武本、堀川道武、長瀬武成
島崎武経、迫間武門、重富武村
テンプレートを表示

菊池 武房(きくち たけふさ、寛元3年(1245年)~永仁6年(1298年)8月27日)は、鎌倉時代中期の武将。菊池氏の第10代当主。

第9代当主・菊池隆泰の三男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。

文永11年(1274年)の文永の役では弟の赤星有隆と共に上陸して、赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。

文永10年(1273年)5月に執権と連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事に由り、鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。

弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞が無く、武房は反幕府へ傾いていたという。

弘安の役から17年後の永仁6年(1298年)8月27日に54歳で死去した。長男の菊池隆盛が早世している事に由り、孫で隆盛の長男の菊池時隆が跡を継いだ。

大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた[2]。

脚注

参考文献

外部リンク

関連項目

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks