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藤原光頼

平安時代後期の公卿、歌人。藤原顕頼の長男。正二位・権大納言。勅撰集『新勅撰和歌集』以下に8首入集。葉室家3代。出家 From Wikipedia, the free encyclopedia

藤原 光頼(ふじわら の みつより)は、平安時代後期の公卿歌人葉室光頼とも呼ばれる。藤原北家勧修寺流葉室家権中納言藤原顕頼の長男。官位正二位権大納言。葉室家3代。葉室大納言入道、桂大納言と称す。

時代 平安時代後期
生誕 天治元年(1124年
別名 葉室光頼、葉室大納言入道、桂大納言
概要 凡例藤原光頼, 時代 ...
 
藤原光頼
藤原光頼(『前賢故実』)
時代 平安時代後期
生誕 天治元年(1124年
死没 承安3年1月5日1173年2月18日
別名 葉室光頼、葉室大納言入道、桂大納言
官位 正二位権大納言
主君 後白河天皇二条天皇
氏族 藤原北家勧修寺流葉室家
父母 父:藤原顕頼、母:藤原忠子(藤原俊忠の娘)
兄弟 顕恵、光頼惟方、雅宝、成頼、祐子、頼子、説頼、円仙、藤原季成室、公子、藤原家明室、藤原信頼室、藤原朝隆室、藤原顕長室、藤原俊憲室、藤原重方
藤原朝隆の娘、藤原親隆の娘
光方光定光雅宗頼藤原宗家
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経歴

長承元年(1132年)9月に崇徳天皇六位蔵人に補せられるが、早くも12月には従五位下に叙せられ蔵人を離れる。保延2年(1136年伯耆守に任ぜられると、保延5年(1139年備中守鳥羽院政期前期から中期にかけて受領を歴任する一方、勘解由次官を兼ねた。

保延7年(1141年正五位下・右少弁に叙任されて弁官に遷ると、久安2年(1146年左衛門権佐(検非違使佐)、久安4年(1148年五位蔵人と要職を兼ね三事兼帯となる。その後も、久安5年(1149年従四位下次いで従四位上、久安6年(1150年正四位下・右中弁、仁平3年(1153年)には上﨟の左中弁・源師能を越えて蔵人頭に補せられるなど、弁官を務めながら順調に昇進。鳥羽院政期末の久寿3年(1156年参議に任ぜられた。

公卿昇進後も、保元3年(1158年正三位権中納言永暦元年(1160年藤原伊実藤原公通を越えて従二位権大納言と急速な昇進を果たし、永暦2年(1161年正二位に至る。『平治物語』によれば、平治元年(1159年)に勃発した平治の乱に際しては、甥に当たる藤原信頼に与同して軍事行動を起こした弟の惟方を叱責し、その離反の遠因を作ったとされる。同書の「光頼卿参内の事」の段には、得意絶頂の信頼に対して一歩も臆することなく堂々と正論を述べる光頼と、その態度に面目を失う信頼の姿とが、対照的な筆致で描き出されている。

二条天皇から「世の事一向に沙汰せよ」(公事のあらゆることに対して処置せよ)と命じられるも、これを固辞[1]長寛元年(1163年)辞表を提出し、翌長寛2年(1164年)正月に辞官を許され、同年8月14日に出家法名は光然。承安元年(1171年任覚より伝法灌頂を受け、法名を理光と改めた[2]出家後は桂の里に退隠している。承安3年(1173年)正月5日に葉室にて薨去享年50。

人物

漢詩文に優れ、有職故実に通じるとともに、明晰な頭脳と合理的精神を持ち、極めて有能な実務官僚であった[3]。また、何事にも公正をもって対処し、朝野の人望も厚かった。

  • 藤原頼長から、その政務への練達さや優れた記憶力を「ゆゆしき君の御宝かな」と評された(『続古事談』)[4]
  • 慈円から、「末代ニ抜ケ出テ人ニ褒メラレシ」人物として高く評価された(『愚管抄』)。

和歌にも優れ、家集として『桂大納言集』を残す。また、『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が採録されている。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

葉室家は光頼の子の代から光雅の流れと宗頼の流れに分かれるが、後世まで家名を存続させたのは宗頼の流れである。

脚注

参考文献

関連作品

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