1946年(昭和21年)、大阪の河内(現在の東大阪市)に生まれる[3]。高校時代は甲子園常連校で野球部に所属するも、喧嘩沙汰を起こして中退[1]。家出後、愚連隊として三重、名古屋、東京などの各地を転々としたのち、1965年(昭和40年)に長野の岡谷に流れ着く[3]。そこで信州斉藤一家三代目総長・伊藤芳和の知遇を得たことでヤクザとなる[1]。
1984年(昭和59年)には五代目信州斉藤一家で諏訪及びに岡谷の『貸元』を任され、同時に『総長代行』の役に就任。上部団体の日本国粋会では『副理事長』や『副会長』を歴任する。そして1990年(平成2年)に44歳で信州斉藤一家の六代目を継承した[4]。
更に1991年(平成3年)には、日本国粋会『組織委員長』に就任。同年に工藤和義を首領に据えた四代目國粹会が発足すると、『幹事長』、『理事長』を歴任し、工藤の右腕として活動した[1]。
國粹会が山口組へと加入[1]した約1年半後の2007年(平成19年)2月15日に工藤四代目(六代目山口組最高顧問[5])が急死したことにより、藤井が3月5日に國粹会の五代目を継承し、六代目山口組の直参に昇格した。なお、継承式は4月19日に信州斉藤一家本部事務所にて執り行われた[4]。
2009年(平成21年)2月に六代目山口組『幹部』[注 1]となった。幹部時代は司忍ら組最高幹部の警護等を担当し、さらに2011年(平成23年)には『若頭補佐』に昇格した[1]。当時、関東地方の山口組傘下組織の中でも執行部メンバーが率いる団体が藤井の國粹会のみであったことから、関東ブロック長も兼任した。
2025年(令和7年)4月の人事では、若頭補佐から舎弟に直り『顧問』に就任。この人事では、六代目体制の発足から20年にわたって若頭の座にあった髙山清司から竹内照明に交代するなど、組織の根本的な若返りが狙いと捜査関係者は見ており、執行部を退任した藤井の代わりに若頭付きだった豪友会会長の加藤徹次(1966年生)が若頭補佐に昇格している[6]。2025年5月14日、六代目山口組幹部の落合金町連合佐藤光男会長が若頭補佐に昇格[7]、関東ブロック長に就任した[8][9][10]。
2025年12月13日、六代目山口組事始め式の前に盃儀式が行われ、司忍六代目組長と舎弟盃を交わした[11]。六代目山口組若頭竹内照明(四代目弘道会総裁)が取持人、六代目山口組直参平松大睦(源清田会会長)が媒酌人、六代目山口組若頭補佐ら立会人を務めた[12]。