藤原作弥
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宮城県仙台市生まれ[2]。1942年、言語学者の父に従って朝鮮の清津へ移住する[3]。1944年、満洲の興安街に転居する[3]が、1945年ソ連軍による侵攻の9時間前に脱出[4]。安東で生活した後、1946年11月に帰国[3]。
宮城県仙台第一高等学校を経て、1962年東京外国語大学フランス語科卒[5]、時事通信社に入社[4]。経済部記者として大蔵省[4]担当。1967年よりオタワ[要出典]、ワシントン特派員[2]。以後、日本銀行[4]、経団連、外務省などの担当を経て、編集委員[要出典]、解説委員[4]、解説委員長[2]を歴任。
1998年、金融機関による過剰接待問題で日銀職員が逮捕され、当時の総裁・副総裁が辞任に追い込まれたことから、民間人初の副総裁に就任。日銀OBで日商岩井(現双日)会長などから転じた速水優総裁を支えた[5][4]。2003年、日立総合計画研究所社長( - 2007年)[4]、同年東北電力監査役。2006年、毎日新聞社監査役( - 2011年)[6]。
2009年、富士通ラーニングメディア取締役[1]。2011年、毎日新聞グループホールディングス監査役( - 2022年)[7]。
大宅壮一ノンフィクション賞選考委員、日本ファッション協会「シネマ夢倶楽部」推薦委員[8]。
1982年『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞[4]。
親族
著書
- 『聖母病院の友人たち 肝炎患者の学んだこと』新潮社、1982年5月。
- 『聖母病院の友人たち 肝炎患者の学んだこと』新潮文庫、1986年5月。
- 『満州、少国民の戦記』新潮社、1984年8月。
- 『満州、少国民の戦記』現代教養文庫、1995年12月。
- 『死を看取るこころ』講談社、1987年7月。
- 『死を看取るこころ』講談社文庫、1990年9月。
- 『人間のいる風景』講談社、1988年10月。
- 『ビジネス書を肴にして』NTT出版、1989年7月。
- 『ビジネス読書学』現代教養文庫、1993年5月。
- 『素顔の日銀総裁たち―カラムコラム』日本経済新聞社、1991年3月。
- 『本にからむコラム』新潮社、1993年6月。
- 『満洲の風』集英社、1996年7月。
- 『風評私評』文藝春秋、1998年12月。
- 『攻守ところを変えて 日銀副総裁になった経済記者』時事通信社、1999年6月。
- 『わが放浪 満洲から本石町まで』時事通信社、2001年10月。
- 『素顔の日銀副総裁日記』集英社、2003年3月。
共著・編著
翻訳
- 『ハードランディング作戦』ジェイソン・コーゾル著 公文俊平共訳、講談社、1988年3月。
- 『ドル大暴落の日 ハードランディング作戦』ジェイソン・コーゾル著 公文俊平共訳、講談社文庫、1992年2月。