藤原光範

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時代 平安時代後期-鎌倉時代前期
生誕 大治元年(1126年
死没 承元3年(1209年
 
藤原 光範
時代 平安時代後期-鎌倉時代前期
生誕 大治元年(1126年
死没 承元3年(1209年
官位 従二位民部卿
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原永範、母:大江行重の娘
兄弟 範貞光範、頼資、範良、業範、因範
養兄弟:孝範
清原頼業の娘
国範、頼範、円範
養子:広橋頼資藤原兼光の五男)
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藤原 光範(ふじわら の みつのり)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿学者藤原南家貞嗣流宮内卿藤原永範の次男。官位従二位民部卿

久寿元年(1154年姝子内親王蔵人に補せられ、同年12月に文章得業生となる。久寿3年(1156年対策に及第し、保元元年(1156年式部少丞、保元3年(1158年)正月式部大丞、同年5月六位蔵人に任官され、8月に巡爵により叙爵

その後、献策により長寛2年(1162年従五位上嘉応2年(1170年正五位下承安5年(1175年従四位下安元3年(1177年従四位上と昇進。治承2年(1178年)には東宮・言仁親王の東宮学士に補せられた。治承4年(1180年)言仁親王が践祚安徳天皇)すると東宮学士の功労により正四位下に叙せられる。元暦2年(1185年)前任者・藤原俊経の出家により式部大輔となる。文治3年(1187年)には後鳥羽天皇御侍読を務めた。建久4年(1193年従三位に叙せられ公卿に列する。建久9年(1198年正三位元久2年(1205年従二位に昇進する一方で20年務めた式部大輔を辞する。建永2年(1207年民部卿に任ぜられる。承元3年(1209年出家。その後の消息は不明だが、同年11月1日に子の頼範が光範の喪に服している[1]ため、年内に亡くなったと推定される。

官歴

公卿補任』による

人物

系譜

脚注

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