藤原永範

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時代 平安時代後期
生誕 康和2年(1100年
 
藤原 永範
時代 平安時代後期
生誕 康和2年(1100年
死没 治承4年11月10日1180年12月5日
官位 正三位宮内卿
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原永実、母:中原師平の娘
兄弟 尹隆、永範
大江行重の娘
範貞、光範、頼資、範良、業範、因範
養子:孝範
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藤原 永範(ふじわら の ながのり)は、平安時代後期の公卿学者藤原南家貞嗣流大内記藤原永実の次男。官位正三位宮内卿後白河二条高倉の3代にわたり御侍読を務めた。

出身

藤原永範は、藤原南家成季流の出身である。平安時代後期の藤原実範を祖とする博士家たる南家は、実範の息子の代で季綱流と成季流に分かれた。永範は成季流の大内記文章博士である藤原永実の子として誕生した。祖父の成季、父の永実ともに大内記と文章博士を務めて四位に至っていたが、同時期の藤原式家藤原敦基藤原敦光)や藤原北家日野流(藤原実光)らの華々しい活躍に比べると、成季流はやや地味な存在であったとされる。。当時の儒者の昇進ルートには、弁官から参議・納言に至る公卿を極官とするルート(主に日野流が独占)と、少・大内記を経て式部大輔や文章博士など式部省関連の官を昇進するルートの2つが存在したが、永範までの南家は後者の諸大夫層に属する家格であった。

初期の経歴と文章博士への抜擢

史料上における永範の初出は、彼が12歳であった永久2年(1114年)のことである。藤原忠通邸で度々行われた当座の作文会において、その作詩の体裁が滞りないものであったことが評価され、少年の身でありながら勧学院学問料を給せられた[1]元永元年(1118年)12月には文章得業生となり、翌元永2年(1119年)正月に加賀少掾に任ぜられ、儒者としての順調な歩みを開始した。

保安3年(1122年)2月に対策に応じ、同年12月には大学権助となる。天治元年(1124年)正月に左衛門尉検非違使宣旨を務め、同年12月には皇后・令子内親王(後の鳥羽院准母)の御給により叙爵した。その後、大治5年(1130年)に策労により従五位上保延元年(1135年)に太皇太后宮少進、保延2年(1136年)に策労により正五位下、保延5年(1139年)に策労により従四位下と着実に昇進を重ねる。

同年(保延5年)12月、菅原時登の死去に伴い、38歳の若さで文章博士に抜擢された。後年の嘉禄2年(1226年)に菅原長貞が「翰林者当道之所重也、累門之所経也、未単四旬応此撰、倩思先規、少其例、就中吏部翰林父子相並之条、正家、俊信朝臣、永範、光範卿之外不候、自愛無極候之処」[2]と評しているように、40歳未満での文章博士への任官は異例の早さであった。この背景には、当時の文壇において永範の父にあたる世代(藤原令明藤原宗光、藤原実光、藤原敦光など)が次々と出家・死去によって一線を退き、世代交代が急速に進んで文壇全体の人材層が薄くなっていたという事情が存在した。

鳥羽院の庇護と文筆活動

文章博士となった永範は、越中介従四位上を経て、久安3年(1147年)正月に伊予権介を兼ねた。同年8月、鳥羽院が安楽寿院南に建設した阿弥陀堂の供養において呪願文を製作して以降、永範の手による鳥羽院関連の願文・呪願文の執筆が急増する。永範が草したこれらの願文は、他の作者によるものに比べて施主(鳥羽院)自身についての記述が多く、自らが「治天の君」として天皇の父であるがゆえに心ならずも国政に参与しなくてはならないという論理を強調するものであり、永範が文筆を通じて鳥羽院の院政正当化を支えていたことが窺える[3]

仁平3年(1153年)正月、永範は南家出身者として初めて式部大輔に任ぜられた。この間、藤原忠通の家司上臈として保元3年(1158年)に忠通の関白辞表を起草する[4]一方で、対立関係にあった藤原頼長の邸での大饗にも参仕し、頼長の長男・兼長の師となるなど、摂関家兄弟の双方とバランス良く関係を維持した。こうした柔軟な立ち回りが可能であったのも、彼に多数の願文執筆を依頼した鳥羽院の強力な後ろ盾があったためと考えられている。

政変と天皇侍読の歴任

久寿2年(1155年)11月、永範は後白河天皇度の大嘗会で悠紀歌人を務め、同年12月には同天皇の御侍読として昇殿を許された(南家実範流として初)。しかし当時の政界は、同じ南家(季綱流)の出身である信西(藤原通憲)が権力を握っており、信西は自らの長子である藤原俊憲や一族の藤原範兼を東宮(後の二条天皇)の学士に大抜擢するなど、季綱流の儒者を優先して重用していた。この時点での永範の侍読就任は、信西の構想における「中継ぎの天皇(後白河天皇)」と呼応した、いわば中継ぎの役割に過ぎなかった。

ところが、平治の乱1159年)によって信西が敗死し、俊憲らが配流・失脚したことで状況は一変する。季綱流の没落に伴い、永暦2年(1161年)に二条天皇の侍読に任ぜられた永範は、さらに仁安元年(1166年)10月、立太子した憲仁親王(後の高倉天皇)の東宮学士に任ぜられた。同年11月の大嘗会では主基歌人を務め、翌仁安2年(1167年)12月には東宮御書始の侍読をも務めた。有力な推挙を持たずとも「二代の侍読」を経験していた実績が、先例を重んじる時代において極めて強力な武器となったのである。

儒者としての公卿昇進と晩年

仁安3年(1168年)3月、高倉天皇の即位に伴い、永範は「前坊学士(前東宮学士)」の功労により従三位に叙せられ、ついに公卿に列した。貞嗣流としては藤原尹忠以来、実に182年ぶりの公卿昇進であった。藤原兼実は『玉葉』承安3年正月5日条にて「披叙位聞書、永範、実守共依坊官賞、叙正三位、(中略)但坊官異他事也、件両人已両度浴恩了、如何々々、先例雖粗存、人別如此、為奇々々」と記し、永範が弁官などの行政官を経ず、儒職・坊官賞を中心に公卿に昇ったことに対する驚きと違和感を書き留めている。これは永範が一代で切り開いた昇進ルートが、それまでの慣例を打ち破るものであったことを示している。儒者が弁官などの行政官を経由せずに儒職を中心に公卿に至ったこの特異な昇進は、南家成季流の家格だけでなく、儒者全体の地位水準を大きく引き上げる歴史的転換点となった。

嘉応元年(1169年)には宮内卿に任ぜられ、承安3年(1173年)正月には再び坊官賞によって正三位に昇進。承安5年(1175年)には播磨権守となる。詩文を深く愛好し師礼を重んじた高倉天皇の侍読として、永範は宮中の詩壇の長老として深く敬愛された。治承2年(1178年)5月30日の内裏作文では、天皇の御製の落句(「豈忘一字勝金徳、可愍白頭把巻師」)に感極まり、同じく侍読であった藤原俊経とともに階を降りて拝礼したという逸話が残る[5]

治承4年(1180年)正月、永範は27年余りにわたって務めた式部大輔を辞任した。同年10月11日に出家し、11月9日の深夜に薨去。享年79[6]。後白河・二条・高倉と「三代の侍読」を務め上げた当代随一の儒者として、その死は「文道の亡ぶこと已に此の時に在るか」と惜しまれた[7]

官歴

公卿補任』による。

官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢 [注 1] 事項
永久2年(1114年 12月30日 15歳 勧学院学問料を給う
元永元年(1118年 12月30日 19歳 文章得業生に補す
元永2年(1119年 1月24日 20歳 加賀少掾に任ず
保安3年(1122年 12月20日 23歳 大学権助に任ず
保安某年(1123年又は1124年 5月22日 24歳又は25歳 左衛門尉に任ず
12月30日 叙爵従五位下
大治5年(1130年 1月6日 31歳 従五位上に昇叙
長承4年(1135年 4月1日 36歳 大皇太后宮少進に任ず
保延2年(1136年 1月6日 37歳 正五位下に昇叙
保延5年(1139年 1月5日 40歳 従四位下に昇叙
12月16日 文章博士に補す
保延7年(1141年 1月29日 42歳 越中介に任ず
天養2年(1145年 1月5日 46歳 従四位上に昇叙
久安3年(1147年 1月28日 48歳 伊予権介に任ず
仁平3年(1153年 1月28日 54歳 式部大輔に任ず
仁平4年(1154年 1月23日 55歳 加賀介に任ず
久寿2年(1155年 12月17日 56歳 侍読に任ず
保元2年(1157年 1月24日 58歳 石見守に任ず
10月23日 正四位下に昇叙
永暦2年(1161年 3月6日 62歳 侍読に再任
長寛2年(1164年 2月8日 65歳 大宰大弐
永万2年(1166年 10月10日 67歳 東宮学士
仁安3年(1168年 3月15日 69歳 従三位に昇叙(非参議
嘉応元年(1169年 4月16日 70歳 宮内卿に任ず
承安3年(1173年 1月5日 74歳 正三位に昇叙
承安5年(1175年 1月23日 76歳 播磨権守に任ず
治承4年(1180年 10月11日 81歳 出家
11月10日 薨去

系譜

脚注

参考文献

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