藤原基忠 (非参議)
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摂関を務めた祖父の松殿基房と叔父の師家は治承・寿永の乱の最中に失脚したが、父の隆忠はこれに連座せず昇進する中、基忠も世に出る。鳥羽院政期前期の建久7年(1196年)従五位下・侍従に叙任。建久9年(1198年)右近衛少将に任ぜられると、正治2年(1200年)正五位下、建仁元年(1201年)従四位下、建仁2年(1202年)右近衛権中将、建仁3年(1203年)従四位上、建仁4年(1204年)正四位下と近衛次将を務めながら昇進を重ねた。
元久2年(1205年)従三位に叙せられるが、公卿昇進後も引き続き近衛中将を兼帯した。承元2年(1208年)正三位、貞応元年(1222年)従二位と昇進するが、この間の承久2年(1220年)父の左大臣・藤原隆忠が出家し官界を引退している。結局、基忠は参議以上の議政官への就任はならず、嘉禄元年(1225年)12月26日に出家した。
伝えられるところでは、基忠の妻は従三位・源雅行の娘であったが、異母兄弟[2]である源親行と道ならぬ恋となって駆け落ちを試みて家を飛び出したとされている。後に2人は雅行に連れ戻されるが、基忠の出家から半年後の嘉禄2年(1226年)6月23日に考えを改めない2人に憤った雅行は家臣の青侍に命じて2人を斬り捨てて、斬首の後に遺体を六条朱雀(六条大路と朱雀大路の交差点)に晒したという(『経光卿記』『明月記』)。藤原定家は親行とその姉妹(基忠室)の「悪行」を非難しつつも、雅行が勝手に実子を殺害する行為に対しても、公家である以上その処罰は朝廷に委ねるべきと糾弾している。なお、基忠の出家の背景には妻の駆け落ちがあったとする推測がある(角田文衛)[3][4]。