藤原通房
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 平安時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 万寿2年1月10日(1025年2月10日) |
| 死没 | 長久5年4月27日(1044年5月26日) |
| 改名 | 長君(幼名)→通房 |
| 別名 | 宇治大将 |
| 官位 | 正二位、権大納言、右近衛大将 |
| 主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇 |
| 氏族 | 藤原北家御堂流 |
| 父母 | 父:藤原頼通、母:対の君(源憲定の娘) |
| 兄弟 |
通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、寛子(後冷泉天皇皇后)、師実 養兄弟:嫄子(敦康親王長女)、源俊房・仁覚(源師房長男・三男)、信家(藤原教通長男) |
| 妻 |
正室:源妧子(源師房の娘) 三松興扶の娘 |
藤原 通房(ふじわら の みちふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原頼通の長男。官位は正二位・権大納言。
万寿2年(1025年)関白・藤原頼通の庶長子として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため嫡男とされた。また、頼通の正室への配慮と摂関家を継ぐという重要性から、摂関家の事実上の長である祖父・道長の土御門殿で養育される。後に隆姫の弟である源師房の娘を正室に迎えて、頼通は正室・隆姫と嫡男・通房を通じて村上源氏との間に強い血縁関係を成立させる。
後一条朝末の長元8年(1035年)元服すると直ちに正五位下に叙せられ、同年中に侍従次いで左近衛少将に任官する。翌長元9年(1036年)には正月に従四位下、7月に従四位上、11月に正四位下と三階もの昇叙を受け、12月に右近衛中将に任ぜられている。
長暦元年(1037年)には13歳にして従三位に叙され公卿に列すと、翌長暦2年(1038年)にも6月に正三位、8月に従二位と二階の加階に与り二位中将となる。長暦3年(1039年)正月に15歳で権中納言に任じられ、同年閏12月に正二位に昇叙された。長久3年(1042年)権大納言に昇進し、長久4年(1043年)には筆頭の権大納言であった藤原頼宗を差し置いて、右近衛大将を兼ねている。
しかし、後朱雀朝末の長久5年(1044年)正月より蔓延し始めた疫病に罹患し、発病してからわずか7日後の4月27日に薨去[1][2]。享年20。通房が早逝したため、他家に養子に出される予定であった異母弟・師実が後継者として摂関家を継承する事になった。