若くして学に親しみ、故事を好んだ[5]。
西晋の懐帝、東晋の明帝・成帝・康帝から任官するように詔が出たが、いずれも辞去した[5]。
東晋で山遐(山簡の子)が余姚県令になると、豪族の戸籍登録逃れを摘発した。虞喜は戸数を秘匿していたので公開処刑に値したが、豪族達は山遐に切歯扼腕していたので、執事(事務官)に「虞喜は気高い節操のある人物ですから、屈辱を与えてはいけません」と働きかけた。さらに、山遐が違法に県舎を修築したと誣告した。山遐は免官され、虞喜への刑は執行されなかった[6]。
子はなく、76歳で他界した[5]。