虞聳
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虞翻の11人の子のうち、6番目に当たる。淡泊で物事に執着しない性格で、行動は礼にかなっていた。
呉の時代には、清官を歴任し、越騎校尉から昇進を重ねて、廷尉となった。呉の滅亡後には晋に仕えて河間国相を務めた。河間王司馬顒はかねてより虞聳の名を聞き知っていたため、虞聳を敬い厚遇した。
虞聳は有能な人物を推挙する際、まだ名が知られておらず、後ろ盾のないような家柄の者を対象とした。彼のやり方に虞聳の兄[1]の友人の王岐が異を唱え、高士というのは必ず群を抜いた才能を示すものだから、有能な人物が無名であるはずがないと主張した。
これを聞いた虞聳は、族子の虞察に宛てた手紙の中でこう述べた。 「現在の人材登用は、田舎にあってまだ人々から認められていない者を招いたり、数多くの中から才能のある者を捜すことがない。褒めたたえるのはすでによい評価を受けている者ばかりで、けなすのもすでに悪い評価を受けている者ばかりだ。このようなありさまだから、いつも私はため息をつくことになるのだ。」
また虞聳は、人々が葬儀や祭祀を盛大に執り行う風潮を嫌っていた。そこで弟の虞昺が死去したとき、霊前に少牢[2]を捧げ、会葬者にも酒とご飯を出すだけにとどめた。以後、彼の一族はみなこのやり方に従ったという[3]。