衣川隆夫
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神戸市須磨区出身。東須磨少年野球で活躍。
育英高等学校では2年夏の県大会準優勝、3年春に第69回選抜大会の出場して準々決勝では2年秋の近畿大会で敗れた上宮高と再戦して敗退。
その後日本大学に進み、野球部に所属。1学年上の加藤康介、1学年下の館山昌平らとバッテリーを組む。2000年春シーズンには東都大学野球リーグ1部首位打者に輝く。4年生となった2001年シーズンには背番号1を背負ってキャプテンを務め、この年の大学選手権でチームを準優勝に輝く。また、この年の四カ国対抗戦と第34回IBAFワールドカップ日本代表にも選出される。リーグ通算90試合出場、278打数74安打、打率.266、4本塁打、37打点。ベストナイン3回。1学年下に捕手の大野隆治や村田修一がいた。
実兄の幸夫も捕手としてプロ入り(近鉄→ヤクルト)しており、兄弟捕手としてのプロ入りもささやかれたが、大学卒業時にドラフト指名はなく、社会人のホンダ入り。入社1年目の2002年には日台対抗戦の日本代表に選出され、ドラフト指名解禁時にはプロの指名があるものと期待された。
しかし、捕手として同年代かつ同期入社の佐伯亮がレギュラー捕手の座をつかみ順調に成長していくのと反比例するように、衣川の守備面には綻びが見え始め、さらには打撃にも影響を与える悪循環に陥ってしまう。そこで2004年シーズン、宇田川丈昌監督と相談のうえ、外野手にコンバートとなった。背番号も大学の1学年先輩である尾形佳紀(広島に入団)が前年までつけていた9番を引き継ぎ、外野手、指名打者として試合に出場し、都市対抗野球で準優勝。
2007年シーズンは再び捕手登録に戻ったが、同年の都市対抗野球南関東2次予選を最後に現役を引退。
その後母校である日本大学のコーチに転じ、2009年6月から8月までは監督代行を務めた。 2022年は日本大学国際関係学部女子野球部の監督を務めており、2023年からは再び日本大学 国際関係学部 男子硬式野球部のコーチとなり、2026年より監督[1]。
日本代表キャリア
- 四カ国対抗戦(2001年)
- 第34回IBAFワールドカップ(2001年)
- 日台対抗戦(2002年)