袞衣

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袞衣(こんえ、こんい)は、日本において天皇即位の礼朝賀などの儀礼で、冕冠とともに着用した礼服である。袞衣は「袞龍御衣(こんりょうのぎょい)」の略称とされる[1]。冕冠を含む装束一式は冕服(べんぷく)、袞冕(こんべん)、また十二種の文様を備えることから袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)とも呼ばれた[2]

袞冕十二章を身にまとう後三条天皇。石本秋園『大礼服着御図』より。
袞冕十二章を身にまとう後三条天皇(石本秋園『大礼服着御図』)。

日本の袞衣は、赤色の大袖・小袖・裳(も)からなり、大袖と裳には十二章と呼ばれる日・月・星辰・山・龍・火・華蟲・宗彝・藻・粉米・黼・黻の文様が刺繍された[3]。中国の袞服が一般に「玄衣纁裳」、すなわち黒色の上衣と赤色の裳を基本としたのに対し、日本の袞衣は上下とも赤色であり、袴の上から褶(ひらみ)に由来する裳を着用するなど、日本独自の構成を備えていた[4]

天皇の冕服は奈良時代にはすでに儀礼で用いられていたが[5]、十二章を備えた袞冕として制度上明確に位置づけられたのは、弘仁11年(820年)の嵯峨天皇の詔による。この詔では、神事には帛衣、朝賀には袞冕十二章、諸行事には黄櫨染衣を用いることが定められた[2]

袞衣は当初、主に朝賀で用いられたが、のちには天皇の即位礼でも着用されるようになった。近世まで即位礼における天皇の礼服として用いられ、孝明天皇の即位礼を最後に、明治天皇以降の即位礼では一般に黄櫨染御袍が用いられるようになった[6][7]

概要

袞衣は、中国礼制における天子の礼服である袞冕に対応する日本の天皇礼服である。中国古典には「袞衣」や「袞冕」の語が見え、『詩経』豳風・九罭には「袞衣繡裳」[注 1]、『周礼』春官には「享先王、則袞冕」とある[8]。『周礼』注では「袞」を巻龍の衣と解しており[9]、袞衣・袞冕は龍文を伴う天子の礼服として理解された。

日本において袞衣は、天皇冕冠とともに着用する最上位の礼服であり、天子礼服とも称された。近世に伝わる袞衣は、赤色の大袖・小袖・裳(も)から構成され、大袖と裳には十二章と呼ばれる十二種の文様が刺繍された[3]。冕冠と袞衣を合わせた装束一式は、冕服、袞冕、袞冕十二章とも呼ばれた。

日本の袞衣は中国の袞服と共通する理念を持ちながらも、形状や色彩には大きな相違がある。中国の袞服は、伝統的に「玄衣纁裳」といい、黒色の上衣と赤色の裳を基本とした。一方、日本の袞衣は上下とも赤色であり、また袴の上から褶(ひらみ)に由来する裳を着用するなど、中国の冕服には見られない構成を備えていた[4]

日本の袞衣が赤色である理由については定説がない。隋代初期の制度に由来するとする説がある一方で[10]、日本で袞衣が制度化された時期の唐令に見える「玄衣纁裳」とは一致しないことも指摘される[11]。また、日本の冕冠に中国には見られない日形の飾りが付くことから、天皇と太陽との関係を象徴する色として赤色が選ばれた可能性を指摘する説もある[12]

名称

「袞衣」は「袞龍御衣(こんりょうのぎょい)」の略称とされる[1]。「袞」は、龍が巻いた文様を表す語とされ、中国の礼制においては天子の礼服を指す語として用いられた。『周礼』春官には、先王を祀る際に「袞冕」を用いるとあり、『周礼』注では「袞」を巻龍の衣と解している[8]

日本では、天皇が冕冠とともに着用する礼服を「袞衣」と呼んだ。ただし「袞衣」は狭義には大袖・小袖・裳からなる衣服部分を指し、冕冠を含む装束一式は「冕服(べんぷく)」または「袞冕(こんべん)」と呼ばれた。また、衣に十二種の文様を備えることから、「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)」とも称された[2]

このため、本項では原則として、衣服部分を指す場合には「袞衣」、冕冠を含む装束一式を指す場合には「冕服」または「袞冕」の語を用いる。ただし、史料や先行研究では、文脈によってこれらの語が厳密に区別されない場合もある。

形状

孝明天皇の袞衣。大袖・小袖・裳からなる。

日本の袞衣は、赤色の大袖・小袖・裳(も)から構成された。大袖は垂領(たりくび)の広袖の表衣であり、その下に盤領(まるえり)の小袖を着用した。裳は襞(ひだ)のある巻スカート状の下衣で、袴の上から着装した。裳は古くは褶(ひらみ)と呼ばれた衣服に由来すると考えられている[4]

大袖と裳には、十二章と呼ばれる十二種の文様が刺繍された。文様の内訳と配置については後述する。小袖には文様を施さず、赤色の無地とされた。

袞衣は、冕冠とともに着用された。冕冠には冕板と旒(りゅう)があり、日本の冕冠では中国の冕冠には見られない日形の飾りが付く。また、袞衣を含む礼服一式には、笏、綬、玉佩、襪、舄などが伴った[13]。ただし、これらは狭義の袞衣そのものではなく、冕冠を含む装束一式、すなわち冕服または袞冕を構成する付属具である。

現存する近世の袞衣では、東山天皇の袞衣は文様を生地に直接刺繍しているのに対し、孝明天皇の袞衣は別裂に刺繍した文様を切り取って縫い付ける切付(きりつけ)の手法を用いている[14]。このように、基本的な構成は長く維持されたが、刺繍の技法や細部の仕立てには時代による相違が見られる。

構成

以下は、成人の男性天皇が即位礼などで着用した、袞衣を含む礼服一式の主な構成である。狭義の袞衣は大袖・小袖・裳を指すが、実際の儀礼では冕冠、笏、綬、玉佩、襪、舄などを伴って着用された[15]

冕冠(べんかん)
天皇が袞衣とともに着用した冠。冕板、旒(りゅう)、日形などの装飾を備える。日本の冕冠には、中国の冕冠には見られない日形の飾りが付く。
大袖(おおそで)
袞衣の表衣。赤色の垂領(たりくび)・広袖の衣で、十二章のうち日・月・星辰・山・龍・火・華蟲・宗彝の八章が配された[3]
小袖(こそで)
大袖の下に着用する内衣。赤色の盤領(まるえり)・筒袖の衣で、文様は施されなかった。
裳(も)
袴の上から着装する、襞(ひだ)のある巻スカート状の下衣。十二章のうち藻・粉米・黼・黻の四章が配された[3]。古くは褶(ひらみ)と呼ばれた衣服に由来すると考えられている[4]
袴(はかま)
裳の下に着用する白色の表袴。中国の冕服には見られない、日本の天皇礼服の特徴の一つである[4]
笏(しゃく)
儀礼の際に手に持つ板状の具。天皇礼服では象牙製の笏が用いられた。
綬(じゅ)
腰に用いる白色の組紐状の帯。中国の綬が腰から垂らす装飾具であったのに対し、日本では帯としての機能を持った[16]
玉佩(ぎょくはい)
腰に下げる玉製の飾り。臣下は一連であったのに対し、天皇は二連の玉佩を用いた[16]
襪(しとうず)
足に着用する袋状の履物。足袋とは異なり、足先は丸い形状であった。
舄(せきのくつ)
儀礼用の靴。赤色のものと黒色のものがあり、時期によって用いられ方に相違があった[17]

十二章

袞衣には、十二章と呼ばれる十二種の文様が配された。日本の袞衣では、このうち日・月・星辰・山・龍・火・華蟲・宗彝の八章が大袖に、藻・粉米・黼・黻の四章が裳に施された[3]。各文様は刺繍で表され、時代や遺品によっては、別裂に刺繍した文様を切付の手法で縫い付けたものもある[14]

大袖に配された八章は、主として上半身に配置された。日章は左肩に置かれ、日輪の中に三足烏が表された。月章は右肩に置かれ、月輪の中に桂の枝を挿した瓶、兎、蟾蜍(ひきがえる)などが表された。星辰は背の上部に北斗七星として配された。山・龍・火・華蟲・宗彝は身の前後や袖に配され、華蟲は雉、宗彝は虎と猿によって表された。

裳に配された四章は、藻・粉米・黼・黻である。藻は水草、粉米は米粒、黼は斧形、黻は「亜」字形または背き合う形に由来する文様である。これらは大袖の八章と合わせて十二章を構成した。

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配置文様説明
大袖 左肩に配され、日輪の中に三足烏が表される。
右肩に配され、月輪の中に桂、兎、蟾蜍などが表される。
星辰 背の上部に北斗七星として配される。
身の前後に配される。
袖や身の前後に配される。
火炎文として表される。
華蟲 雉を表す文様。
宗彝 宗廟の祭器に由来する文様で、虎と猿によって表される。
水草を表す文様。
粉米 米粒を表す文様。
斧形の文様。
「亜」字形、または背き合う形に由来する文様。
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日本の袞衣における十二章の配置は、中国の冕服に由来する理念を受け継ぎながらも、衣服の構成や文様の表現方法において独自の形式を示している。中国の袞服では文様を織成で表すのに対し、日本の袞衣では刺繍が用いられた[4]

歴史

日本の袞衣は、奈良時代の天皇礼服を基礎とし、平安時代初期に十二章を備える袞冕として制度化された。奈良時代にはすでに「冕服」の語が見えるが、この時点で後世のような赤色の袞衣が成立していたわけではない。

奈良時代

続日本紀』天平4年(732年)正月乙巳朔条には、天皇が大極殿で朝賀を受け、初めて冕服を着用したと記されている[18][5][注 2]。この記述は、遅くとも奈良時代前期には天皇の儀礼装束として冕服が用いられていたことを示す。ただし、ここでいう冕服が、後世のように十二章を備えた赤色の袞衣であったとは限らない[5]

養老律令』の衣服令には、皇太子以下の礼服に関する規定は見えるが、天皇自身の礼服についての規定は置かれていない[19]。そのため、奈良時代の天皇礼服の具体的な色彩や構成は、律令の条文からは明らかでない。

正倉院には「礼服御冠残欠」として、聖武天皇および光明皇后の礼冠の残欠を整理した函が伝わる。この中には二人の礼服を納めたことを示す木牌があり、その裏面には天平勝宝4年(752年)4月9日の日付が記されている。この日は東大寺大仏の開眼会の日にあたるため、これらの礼服は開眼会に際して用いられたものと考えられている[20]

聖武天皇の礼服そのものは現存しないが、後世の正倉院文書にはその内容が記録されている。延暦12年(793年)の『曝涼使解』や弘仁2年(811年)の『勘物使解』によれば、聖武天皇の礼服には帛袷袍(はくのあわせほう)、すなわち白絹の袷の袍が含まれていた[21][22][23]

天寿国繡帳』の男性像。袴の上から褶(ひらみ)を着用している。

このことから、奈良時代の天皇礼服は、後世の袞衣のような赤色の大袖・小袖・裳からなる装束ではなく、白色を基調とする礼服であったと考えられている[24]。また、正倉院文書に見える礼服は、袍・袴・褶(ひらみ)などから構成されており、中国の冕服に見られる「衣・裳」とは異なる下半身の構成を持っていた。この褶は、のちの袞衣における裳へとつながる要素と考えられる[25]

以上のように、奈良時代には天皇の儀礼装束として冕服が用いられていたが、十二章を備えた赤色の袞衣はまだ確認できない。後世の袞衣は、奈良時代の天皇礼服を基礎としつつ、平安時代初期に中国礼制の袞冕十二章を取り入れる形で成立したと考えられる。

平安時代

袞衣が天皇の礼服として制度上明確に位置づけられたのは、弘仁11年(820年)の嵯峨天皇の詔による。この詔では、天皇の装束について、神事には帛衣、朝賀には袞冕十二章、諸行事には黄櫨染衣を用いることが定められた(『日本紀略』弘仁11年2月2日条)[2]。ここにいう袞冕十二章は、冕冠と十二章を備えた袞衣からなる天皇の礼服を指す。

この規定により、奈良時代の白色を基調とする天皇礼服とは異なり、十二章を備えた袞冕が朝賀用の礼服として位置づけられた。冕冠には冕板の前後から旒(りゅう)が垂れ、袞衣には十二種の文様が配された。これにより、日本の天皇礼服は、中国礼制の袞冕を参照しながらも、日本独自の形式を備えた礼服として整えられていった。

平安中期の記録には、即位礼に用いられた袞衣の具体的な姿が見える。源師房の『土右記』長元9年(1036年)7月4日条には、後朱雀天皇の即位礼に先立って行われた「礼服御覧」の記事がある[26]。礼服御覧とは、即位礼で天皇が着用する礼服を内蔵寮から取り出し、天皇が自ら点検する儀式である。

『土右記』によれば、このときの天皇礼服の大袖は「緋色綾」であり、日・月・山・火焔・鳥・龍・虎・猿などの文様が刺繍されていた[26]。また、小袖と裳も大袖と同じ色であった。小袖には文様が施されず、裳には大袖とは別の文様が刺繍されていた。これらの記述から、平安中期には、赤色の大袖・小袖・裳からなる袞衣の基本的な形式が成立していたことがわかる。

ただし、日本の袞衣は唐の袞服をそのまま写したものではなかった。唐の袞服は玄衣纁裳、すなわち黒色の上衣と赤色の裳を基本としたが、日本の袞衣は上下とも赤色であり、また小袖・袴・褶に由来する裳を伴うなど、奈良時代以来の日本の礼服の構成を残していた[4]。このため、平安時代の袞衣は、中国礼制を参照しながらも、日本の宮廷装束として独自に形成されたものと考えられる。

袞衣は当初、朝賀に用いられたが、のちには即位礼でも着用されるようになった。正暦4年(993年)を最後に朝賀が行われなくなると、袞衣は主として即位礼における天皇の礼服として用いられるようになった[27]

鎌倉時代

鎌倉時代にも、天皇の即位礼では袞衣を含む礼服一式が用いられた。この時期の袞衣の具体的な姿を伝える重要な記録として、『後深草院御記』弘安11年(1288年)3月3日条がある。同条には、伏見天皇の即位に先立ち、父の後深草上皇が礼服を検分した際の様子が記されている[28]

この記録によれば、礼服は辛櫃(からびつ)に納められており、その中に大袖・小袖・裳などが収納されていた。大袖は赤色で、左肩には日輪と三足烏、右肩には月輪と桂・兎・蟾蜍などが表されていた。また、背には北斗七星が配され、その下に龍、山、鳥、火、虎、猿などの文様が刺繍されていた。袖にも龍の文様が施されており、後世の袞衣に見られる十二章の配置と大きく共通していた[28][29]

小袖は大袖の下に着用する内衣であり、刺繍は施されていなかった。裳は紅色で、複数の文様が刺繍されていたが、記録上は判読しにくい箇所もあり、すべての文様が明確に記されているわけではない。『後深草院御記』では裳の文様として黻に相当するとみられる形が記されているが、十二章のうち裳に配される四章すべてが明記されているわけではない[30]

『後深草院御記』では裳の文様がすべて明記されているわけではないが、実際には裳にも四章が配されていたと考えられている[30]。このことから、鎌倉時代の袞衣は、平安時代に成立した赤色の大袖・小袖・裳を基本とし、十二章を備える礼服として継承されていたとみられる。

『後深草院御記』の記事は、現存する近世の袞衣と比較しても重要である。大袖に配された日・月・星辰・龍・山・火・華蟲・宗彝に相当する文様の配置は、後世の遺品に見られる形式とおおむね一致しており、鎌倉時代には袞衣の基本的な意匠がすでに安定していたことを示している。

南北朝・室町時代

鎌倉末期から南北朝時代にかけて、天皇礼服は戦乱の影響を受けた。光厳天皇の礼服御覧の際には、内蔵寮の倉が破損していたため礼服類が湿気を帯びていることが判明し、礼服は天皇の父である後伏見上皇の御所に一時保管された。このとき後伏見上皇は、宮中の御用絵師である高階隆継に命じ、礼服の図を描かせたとされる[31][32]。この図は、のちに失われた礼服を復元する際の重要な手がかりとなった。

正慶2年(1333年)、鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱により、それ以前の天皇・女性天皇・幼少天皇・皇后・皇太子の礼服は失われたとされる[33]。そのため、建武4年(1337年)12月28日に行われた北朝第2代・光明天皇の即位礼では、即位に必要な装束が新たに調製された。天皇の礼服は、後伏見上皇が描かせた礼服図を基に、旧例に近い形で復元された[31][33]

このとき冕冠も新調された。冕冠の制作にあたっては、正倉院に伝わる天皇礼冠が参考にされたとされる[33]。このように、南北朝期の袞衣・冕冠は、単なる新調ではなく、失われた古例を絵図や古器物によって復元する性格を持っていた。

北朝第3代・崇光天皇の即位礼では、光明天皇のときに調製された礼服が用いられた。第100代・後小松天皇の即位礼では、天皇が幼少であったため、高倉家が光明天皇の礼服を参考にして小形の礼服を新調したとされる[34]

第101代・称光天皇の即位礼では、宝蔵の焼失により礼服一式が新たに調製された。新調されたものには、玉御冠、赤色大袖、同色小袖、同色御裳、玉佩、白綬、牙御笏、錦御襪、御履などが含まれていた[35]。一方で、称光天皇の礼服御覧の際に礼服辛櫃と冠桶がそれぞれ二合あったことから、後小松天皇の幼少天皇用礼服は焼失を免れた可能性も指摘されている[36][37]

応仁の乱の際、天皇礼服は戦火を避けるため比叡山に移された。そのため、袞衣を含む礼服類は焼失を免れた。文明6年(1474年)3月27日には、公家の甘露寺親長が比叡山へ遣わされ、山上に預けられていた御礼服を召し寄せている[27][38][注 3]

しかし、応仁の乱後には、天皇礼服以外の即位礼関係の道具や装束の多くが失われていた。このため、後柏原天皇の即位礼は長く挙行されず、礼服や冕冠の修理、諸臣の礼服の新調などを経て、大永元年(1521年)3月22日にようやく行われた。その後、後奈良天皇および正親町天皇の即位礼でも礼服が用いられた。正親町天皇の即位礼に際しては、冕冠と玉佩に修理が必要であったため、仏師によって修理されたとされる[39]

安土桃山時代

天正14年(1586年)に行われた第107代・後陽成天皇の即位礼は、豊臣秀吉の支援のもとで挙行された。戦国期の即位礼と比べて資金面には比較的余裕があり、天皇の装束として夏冬の束帯や御引直衣などが新調された[40]

しかし、このとき袞衣を含む天皇礼服は新調されなかった。即位礼で用いられた礼服は、室町時代の称光天皇の代に調製されたものとみられている[40]。このことから、安土桃山時代においても、袞衣は新たな意匠に改められるのではなく、旧来の礼服を継承して用いるものと認識されていたと考えられる。

江戸時代

江戸時代には、戦国期に衰退した有職故実が復興したとされる。袞衣についても江戸時代に新調や修理が行われたが、その意匠は必ずしも江戸時代に新たに作り出されたものではなかった。後伏見上皇の命で作成された礼服図や、応仁の乱の際に比叡山へ疎開された礼服類の存在により、袞衣の意匠は中世以前の形式を比較的よく保ったと考えられている[41]

慶長16年(1611年)の第108代・後水尾天皇の即位礼では、天皇が用いる諸装束が一通り調進された。天皇礼服に関しては、大袖・小袖・裳・襪が新調されたが、冕冠と舄は旧来のものが用いられたと考えられている[42]。このことから、江戸初期の即位礼では、袞衣本体を新調しつつも、冕冠など一部の付属具については旧物を継承していたことがわかる。

寛永7年(1630年)の第109代・明正天皇の即位礼では、天皇が女性であったため、男性天皇の袞衣とは異なる白一色の礼服が新調された。この礼服は白唐綾無文で、十二章の文様は配されなかった[43]。女性天皇の礼服については、古例に倣って白色無文とされたと考えられる。

寛永20年(1643年)の第110代・後光明天皇の即位礼では、天皇が幼少であったため、礼服が新調された。このとき用いられた袞衣の雛形とみられる「礼服形」が現存しており、そこに描かれた意匠は、近世の袞衣の文様配置とほぼ一致する[44][45]

承応2年(1653年)の禁裏火災により、それ以前の礼服類の多くが焼失したと考えられている[46]。ただし、明暦2年(1656年)の第111代・後西天皇の即位礼に際する礼服御覧では、新調品とともに「古物一具」が用いられており、この時点で後光明天皇の礼服が残っていた可能性も指摘されている[46]

京都御所東山御文庫には、後西天皇以降の歴代天皇が着用した礼服が伝来している。ただし、大正元年(1912年)に行われた東山御文庫の調査をまとめた『御服御目録』については、所有者の認定に不備があると指摘されており、伝来品の中には後光明天皇以前の礼服が含まれている可能性もある[46]

袞冕十二章を身にまとう霊元天皇。『霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風』より。

第112代・霊元天皇の即位礼を描いた『霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風』には、冕冠をかぶり、赤色の袞衣を着用して高御座に座す霊元天皇の姿が描かれている。即位礼を描いた屏風の中で、天皇の姿がこのように表されている例は注目される。霊元天皇の袞衣は刺繍が外された状態で伝存するとされるが、『御服御目録』では後西天皇のものとされており、所有者の比定には疑義がある[46]

また、第113代・東山天皇と第121代・孝明天皇が着用した赤色の袞衣は、いずれも京都御所の東山御文庫に伝わる。東山天皇の袞衣では十二章の文様が生地に直接刺繍されているのに対し、孝明天皇の袞衣では、別裂に刺繍した文様を切り取って縫い付ける切付の手法が用いられている[14]。このように、江戸時代の袞衣は基本的な形式を保ちながらも、刺繍技法や仕立てには時代による違いが見られる。

明治以降

袞衣は、近世まで天皇の即位礼における礼服として用いられたが、孝明天皇の即位礼を最後に、即位礼での使用は行われなくなったとされる。明治天皇以降の即位礼では、袞衣と冕冠からなる袞冕ではなく、一般に黄櫨染御袍が用いられるようになった[6][7]

女性天皇・幼少天皇の礼服

奈良時代の威儀命婦の礼服姿の復元。女性天皇の礼服そのものではないが、古代女性礼服の参考例となる。

女性天皇の礼服

女性天皇の礼服については、男性天皇の袞衣とは異なる形式が伝えられている。『正倉院文書』には女性天皇の礼服に関する明確な記録は見えないが、平安時代の『土右記』長元9年(1036年)7月4日条には、内蔵寮に保管されていた女性天皇の礼服についての記述がある[26]

『土右記』によれば、女性天皇の礼服は、大袖・小袖・裙(くん)などがすべて白い綾で作られ、刺繍文様は施されていなかった[26]。したがって、男性天皇の袞衣に見られる十二章は、女性天皇の礼服には用いられなかったと考えられる。

また、『土右記』には、小袖の下に白い羅を縫い付け、男性天皇の裳に似た形状であったことが記されている[26]。このことから、女性天皇の礼服は後世の十二単のような形式ではなく、奈良時代以来の礼服に見られる褶(ひらみ)に近い構造を備えていたと考えられている[47]

『土右記』が記された時代に最も近い女性天皇は、孝謙天皇、すなわち重祚後の称徳天皇である。このため、同記に見える女性天皇の礼服は、孝謙・称徳天皇が着用した礼服であった可能性が指摘されている[48]。仮にそうであれば、奈良時代の女性天皇の礼服も、白色無文を基本としていたことになる。

幼少天皇の礼服

幼少天皇の礼服についても、『土右記』に記述がある。同記によれば、幼少天皇の礼服は、大袖・小袖・裳の色や刺繍が成人天皇の礼服と同じであった[26]。すなわち、幼少天皇の場合は、女性天皇のような白色無文の礼服ではなく、赤色の大袖・小袖・裳からなる袞衣を小形にしたものが用いられたと考えられる。

このことは、室町時代の後小松天皇や江戸時代の後光明天皇の即位礼において、幼少天皇用の礼服が新調されたこととも対応する。幼少天皇の礼服は、基本的には成人天皇の袞衣と同じ形式を保ちつつ、天皇の年齢や体格に合わせて調製されたものとみられる。

中国の袞冕・袞服との比較

中国における袞冕・袞服

中国礼制において、袞冕は天子が着用する礼服の一つとされた。『周礼』春官には、先王を祀る際に「袞冕」を着用するとあり、袞冕は袞服と冕冠からなる礼服として理解された[8]。また、『周礼』注では「袞」を巻龍の衣と解している[9]

『周礼』では、天子が祭祀に応じて着用する六種類の冕服、いわゆる六冕が説かれている。そのうち袞冕は、先王を祀る際に着用する礼服とされた[49]。ただし、周代に実際にどのような形式の袞服が用いられたかは明確ではなく、後世の儒学者によって、龍を含む十二章を備えた礼服として解釈された。

始皇帝は六冕を廃止し、袀玄(きんげん)と呼ばれる黒一色の礼服を用いたとされる[50]前漢でも袞冕は用いられなかったが、後漢明帝の時代に、冕冠とともに袞服が復興された[50]。以後、中国皇帝の袞服は、基本的に黒色の上衣と赤色の裳からなる「玄衣纁裳」を基調とし、十二章を配する礼服として整えられていった。

一方、日本の袞衣は、中国の袞冕に由来する理念を受け継ぎながらも、唐の袞服をそのまま写したものではなかった。日本の袞衣は上下とも赤色であり、袴や褶(ひらみ)に由来する裳を伴うなど、唐の冕服とは異なる構成を備えていた[4]

日本の袞冕との相違点

日本の袞冕十二章と中国、特に唐の袞冕との間には、次のような相違点がある[4]

さらに見る 項目, 中国の袞冕・袞服 ...
項目中国の袞冕・袞服日本の袞冕・袞衣
色彩 上衣は黒色、裳は赤色の「玄衣纁裳」を基本とする。 大袖・小袖・裳ともに赤色である。
文様の表現 十二章を織成によって表す。 十二章を刺繍によって表す。
下着 白紗中単と呼ばれる白色の薄絹を用いる。 赤色無地の小袖を用いる。
腰から垂らす装飾具として用いる。 白色の組紐状の帯として用いる。
帯類 大帯・仮帯・革帯などを伴う。 大帯・仮帯・革帯は見られない。
蔽膝 蔽膝(へいしつ)と呼ばれる前掛けを伴う。 蔽膝は用いられない。
下半身の構成 袴や褶を伴わない。 袴を着用し、その上から褶に由来する裳を着ける。
礼服に剣を伴う。 袞衣には剣を伴わない。
冕冠 黈纊充耳と呼ばれる耳飾りを備える。 黈纊充耳はなく、かわりに日形の飾りが付く。
白色の玉を糸で貫いた旒を垂らす。 瓔珞や多色の玉からなる旒を垂らす。
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このように、日本の袞冕は中国礼制の語彙と理念を取り入れながらも、衣服の構成や色彩、文様の技法、付属具において大きく異なっていた。特に、日本の袞衣が赤色一色であること、袴と褶に由来する裳を伴うこと、冕冠に日形を付けることは、日本の天皇礼服に特徴的な要素である。

日本で袞冕十二章が制度化されたのは嵯峨天皇の時代であるが、嵯峨朝には遣唐使が派遣されていない。また、平安時代に入ってからの遣唐使派遣も限られていた。このため、平安初期の唐風化は、唐の制度を直接かつ正確に移入したというより、文献知識や日本側の解釈に基づいて行われた可能性が指摘されている[51]

中国の袞冕・袞龍袍の図像

中国では、冕冠とともに着用する袞服のほか、時代によっては龍文を施した袍も袞服・袞衣と呼ばれた。明代には、冕冠を伴う冕服とは別に、翼善冠とともに着用する袞龍袍が用いられた。

龍文様と爪の数

敦煌莫高窟329窟の騎龍仙人。初唐期の龍文様の例。

袞衣の大袖に配された龍文様には、巻龍や小龍がある。近世に伝わる袞衣では、龍の爪の数はすべて同じではなく、前脚の片側が四爪、その他が三爪で表されている[52]。この特徴は、後世の中国において皇帝の龍文様とされた五爪龍とは異なる。

しかし、龍の爪の数は時代によって変化しており、古代から一貫して五爪龍が皇帝専用の標準的な文様であったわけではない。中国でも、初唐期の敦煌莫高窟の龍には三爪の例が見られる[53]。また、唐の李憲の恵陵壁画に描かれた青龍には四爪の例があり、唐から宋にかけては三爪または四爪の龍が一般的であったとされる[54]

五爪龍が皇帝の龍文様として強く意識されるようになるのは、元代以降である。延祐元年(1314年)、元の仁宗は龍を「五爪二角」と定義し、龍鳳文の使用を制限した[55][注 4]。このような制度を背景に、元・明以降、中国では五爪龍が皇帝権威を示す標準的な文様として広まっていった。

これに対して、日本で袞冕十二章が制度化されたのは弘仁11年(820年)のことであり、元代に五爪龍が制度的に強調されるよりもはるかに早い。したがって、日本の袞衣に三爪龍が用いられていることを、元・明以降の五爪龍規範に基づいて説明することは時代的に適切ではない。

『華厳宗祖師絵伝』に描かれた龍。鎌倉時代、13世紀初頭。

日本でも、飛鳥・奈良時代以来、三爪または四爪の龍文様が用いられていた。たとえば、キトラ古墳高松塚古墳の壁画に描かれた青龍では、脚によって爪の数が異なる表現が確認されている[56]。このため、袞衣の龍文様に見られる三爪・四爪の表現も、後世の五爪龍規範によるものではなく、古代以来の龍文様の系譜の中で理解する必要がある。

もっとも、袞衣の龍文様において、なぜ前脚の片側だけが四爪で、その他が三爪として表されたのかは明らかではない。現段階では、中国唐代以前の龍文様や日本古代の青龍図像に見られる三爪・四爪の表現を受け継いだ可能性が考えられるが、具体的な理由についてはなお検討を要する。

脚注

参考文献

関連項目

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