キトラ古墳
奈良県明日香村にある古墳
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概要
年代
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている[4][1]。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める[6][7]。
1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され[6]、2001年には朱雀と十二支像が確認された[2][6]。壁画はカビなどの被害が発生していたため2016年はぎとりが決定され、2022年11月までにすべてはぎ取られた[2][6]。
2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
2013年に石室の考古学的調査は終了したため石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われている[6]。
2018年10月31日付けで壁画と出土品が国の重要文化財に指定され、[8]、2019年には壁画が国宝に指定された[9][10]。
被葬者
誰が埋葬されているかは未だ判然としていない[4]。
年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている[4][3]。金象眼が出土したことから身分や地位の高い人物であるが[4]、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
白石太一郎は、被葬者は右大臣の阿倍御主人であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした[11]。阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。
構造
四壁の四神
東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている[1][2]。
東壁の青龍と西壁の白虎は右向きであり、すなわち青龍は南壁の朱雀のほうを向いており、白虎は北壁の玄武のほうを向いている。しかし中国においては、これとはことなり青龍も白虎もいずれも南壁の朱雀のほうを向いている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」「巳(み)」など6体の発見に留まっている[12]。
同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる[12]。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。2021年には蛍光X線分析により「巳」の衣装の塗料に水銀が使われていることが確認され、朱色だったと推測されている[12]。
天井の天文図
天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる[14]。また、バビロニアの「マルムク・カタログ」(紀元前7世紀頃の星表)、エジプト・デンデラ神殿の「デンデラの天文図」(紀元前1世紀頃)、あるいはギリシアの天文学者ヒッパルコスによる星表(紀元前2世紀)など、古代の天文学において天体を記録した資料は複数存在する。しかし、これらの多くは写本や文献中の記述として伝わっているか、芸術的観点かつ象徴的に扱われており、「“観測に基づく星の実位置を科学的に描いた図像”として現存しているもの」として、今日まで残っている天文図は極めて限られている。その点で、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初頭)の石室天井に描かれた天文図は、中国の天文体系に基づきながらも、北天の星々を天文観測に即して科学的に配置しており、緯度補正もなされている点から、極めて科学的で精緻な作図と評価されている。このような背景から、「現存する世界最古の科学的な天文図[15]」と紹介されることもある。描かれている星の総数は、277個である。
保存事業



研究・保存・公開などは奈良市にある奈良文化財研究所が主となっている。
発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明した[2]。このため壁画をはぎ取り保存する作業が行われることとなった[2][16]。文化庁は2004年8月より、損傷の激しいものから順次はぎ取り作業を開始[1][2][17]。同庁によれば、2007年2月15日までに南壁の朱雀がはぎ取られ、確認されている壁画のはぎ取り作業は(天井の天文図を除き)完了した。壁画の一部は2009年5月8日から同24日まで奈良文化財研究所飛鳥資料館にて一般公開された。2010年11月までにはぎ取り作業を完了[6]。
2013年3月までに石室の考古学的調査は終了[6]。同年8月には石室の一般公開が実施された[6]。1983年に石室南壁にあった盗掘穴(高さ65cm、幅25〜40cm、奥行49cm)からのファイバースコープ撮影で壁画が発見され石室調査がスタートしたが[6]、2013年の石室調査終了によって穴は二上山産の凝灰岩2個で封印された[6]。穴を封印している石材には「キトラ古墳石室の盗掘口を閉塞する」の文字を刻んだ銅板が取り付けられている[6]。古墳一帯は国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備が進められ、2016年度までに「体験学習館(仮称)」が建設され墳丘遺構が整備されることとされた[6]。「体験学習館(仮称)」は2016年9月、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」として開館した。同館の1階は文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設となっており、地階には石室のレプリカ等の展示がある[18]。
