西本町 (館林市)
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歴史
1969年(昭和44年)11月1日に第二次住居表示が実施され、大字館林字鞘町・塚場町・木挽町と、代官町の一部が合併し西本町となった[5]。
旧館林城下町名の歴史
鞘町 (さやちょう)
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[5]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が32軒、男63人、女47人、馬1頭であった[5]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に研屋4人、鞘師3人、金具屋3人、柄巻屋1人が住み、同年の職役は120人と定められていた[6]。宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書(よろずききがき、山田文書)」では、家屋36軒中、山伏1軒、研屋2軒、柄巻屋1軒、鞘師3軒であったという[7]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳(『館林藩史料』)」では、町の長さ263m程度(2町25間余)、家数25軒、その他に町役人無役屋敷が1軒あった[7]。嘉永元年(1848年)の『館林城下絵図』では、家数は34軒[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約3町9反(約38,676m2)[7]。
塚場町 (つかばちょう)
館林城下の北西端付近に位置し、日光脇往還から太田口門[注 1]を結ぶ道の両側に開けていた[7]。地名の起源は不詳[7]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[7]。『館林記』に残る記録では、板葺萱葺交じりの家が106軒、男260人、女204人、馬24頭であったとされ、当時の館林城下で最大の町[7]であった。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ596m程度(5町28間余)、家数101軒、その他に町役屋敷・定使無役屋敷が各1軒あった[7]。嘉永元年(1848年)の『館林城下絵図』では、家数は109軒[7]で、うち3軒は御用地であった[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約4町7反(約46,609m2)[8]。
木挽町 (こびきちょう)
城下町西端にあった職人町で、寛文元年(1661年)、徳川綱吉の館林入部に伴い、城下町が西方に拡張された際に新設された[9]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[9]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が24軒、男42人、女27人であった[9]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に木挽職20軒が居住していた[9]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ362m程度(3町19間余)、家数19軒[9]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約4町4反(約43,634m2)[9]。
人口
小・中学校の学区
行政
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- 西本町南会館
経済
- 店・企業
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地域
名所・旧跡
- 太田口御門跡
- 青石地蔵板碑
- 館林城鐘