西生面
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歴史
先史時代
面内にある蔚州新岩里遺跡は櫛目文土器時代(新石器時代)の遺跡であり、櫛目文土器や隆起文土器が発見されている。また大松里の西生小学校大松分校付近からも新石器時代土器片や青銅器時代土器片が発見されている(大松里新石器時代遺跡)[6]。
三国時代
この地は三国時代、生西郎または生西良と呼ばれていた。地名の由来は“生(생)”が「明ける(새다)」に通じるので「東」を意味し、“西良(서라)”は「村(마을)」のことだとして、「慶州の東にある郡」と解釈されている。慶州の東南海岸で、地形の特徴から、慶州の外郭を守るために軍事基地としての性格が強かった。[7]
新羅初期は生西良郡に属していたが、景徳王16年(757年)に東安郡と改名した。西生温陽温山地域東海南部海岸をその範囲とし、北に栗浦県、南に機張県、内陸部(西)に虞風県があり、現在でいう熊村および熊上(梁山市)地域までを領県としていた。生西良の地名は西生良、西舎浦、熟麻鎮と変遷していった。[8]
大松里からは、卜骨に見える遺物と多くの三国時代土器片が出土している(大松里三国時代生活遺跡)[9]。
高麗時代
高麗時代、県は興麗府へと統合され、第17代仁宗の時蔚州に編入された。[8]
李氏朝鮮時代
李氏朝鮮時代初期には現・禾亭里に西生浦水軍万戸営が置かれた。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では二度にわたり加藤清正が侵入し、西生浦倭城を建てた。明の麻貴提督らがこれを攻撃。日本軍は撤退した。その後水軍万戸は水軍同僉節制使に昇格し、高宗32年(1895年)に廃止された。[8]
慶長の役(壬乱)後西生地方は旧鎮・鎮下・北洞・南洞が水軍同僉節制使地域で、上禿(現・禾山)・江月・延山・渭洞・陽岩・用洞・云谷・軍令・新里・羅士・羅海が温南面管轄だった[8]。
三道統制営と各道の兵水営の廃止に先立ち、高宗31年(1894年)同僉節制使直轄地に西生面を置いて旧鎮、鎭下、北洞、南洞を管轄させている[8]。
城内里・外里・松亭洞・大陸洞その後上禿・江月・延山・渭洞・陽岩・用洞・云谷・軍令・新里・羅士・羅海・平洞地域を分離して外南面を置いて、高宗光武10年(1906年)9月24日、勅令49号の施行により外南面を梁山郡に所属させたが、1910年に再び蔚州郡に戻した[8]。
日本統治時代
1914年4月1日、朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)に基づき、西生面、外南面、温南面禾麻洞が統合された。この時、現行の禾亭・西生・鎮下・大松・羅士・明山・禾山・渭陽・龍里・新岩の10法定里にまとめられた[8]。
独立後
1962年6月1日、法律第1068号「市設置と郡の管轄区域及び名称変更に関する法律(市設置와郡의管轄區域및名稱變更에關한法律)」[10]に基づき蔚山郡が蔚州郡と改称。
1962年11月21日、法律第1173号「釜山市政府直轄に関する法律(釜山市政府直轄에關한法律)」[11]により東萊郡の一部が釜山直轄市になるに伴い蔚州郡から東萊郡に編入される。
1973年7月1日、法律第2597号「市設置と郡の廃置分合に関する法律(市設置와郡의廢置分合에관한法律)」[12]により東萊郡から梁山郡に所属が変更される。
1983年2月15日、大統領令第11027号「市・郡・区・邑・面の管轄区域の変更及び面設置等に関する規定(시·군·구·읍·면의관할구역변경및면설치등에관한규정)」[13]により再び蔚州郡となる[8]。
1991年1月1日、蔚州郡を蔚山郡に戻す。1995年1月1日、法律第4801号「全羅南道光陽市等2個都農複合形態の市設置等に関する法律(全羅南道光陽市등2個都農複合形態의市設置등에관한法律)」[14]に基づき蔚山郡が蔚山市に統合されるに伴い蔚山市蔚州区西生面になる。
1997年7月15日には法律5243号「蔚山広域市設置等に関する法律(蔚山廣域市設置등에관한法律)」[15]により蔚山市が広域市になるに従い、蔚山区が再び郡制を施行し、蔚州郡西生面となった。
