護保寺
大分県杵築市にある仏教寺院
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歴史

平安時代初期に南都大安寺の安宗律師 (大安寺行教の甥で、真済の兄弟)が創建した古刹で1100年の歴史を誇る。安宗は奈良大安寺の僧侶で石清水八幡宮護国寺の初代別当を務めた。安宗は、石清水八幡宮に宇佐八幡大菩薩を勧請した行教の甥である。行教は天安2年(858年)真雅の推挙により、藤原良房の外孫惟仁親王(のちの清和天皇)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。しかし、親王がまもなく即位したことから、翌貞観元年(859年)改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭した。当寺に伝承している寺伝によると、その際に安宗は行教とともに豊後を訪れ、当寺を開山した。それから約20年後の貞観17年(875年)に安宗は、宇佐八幡宮弥勒寺に国家安寧を祈って一切経を奉納している。

寛和元年(985)には花山天皇の勅願によって若宮八幡社の創建と共に中興される。以来、若宮八幡社の別当寺院となった。若宮八幡は創建時の宮司紀兼貞が京都石清水八幡宮の若宮四所権現の御尊像を奉じた。尊像は宇多天皇第8皇子で宇多源氏の祖である一品式部卿敦実親王が御手づから白檀に刻まれ914(延喜14)年に京都仁和寺で開眼供養されたもの。木付氏累代の信頼も厚く、流鏑馬の道場として放生会もこのお寺で行われ、松平氏入部後は城主の祈願所として栄え、歴代領主や歴代藩主から尊信された。杵築藩では、歴代藩主が厄除けや病気平癒を祈願していた。また、庶民からは雨乞いや火伏せの信仰も厚かった。また、若宮八幡社は「浜の牛馬市」と呼ばれる牛馬市を催し、にぎわっていたようだ。承安3年(1173年)に中村に遷した際、藤原伊通より裁許を得て豊後国司藤原頼輔監督の下で市を開催した。これが放生会の神事と結びついて牛馬市として盛んになり、日本三大牛馬市に数えられるに至った。牛馬の需要が減った戦後も、昭和25年(1950年)頃には約2千頭の牛馬が出されていた。

若宮八幡社の所蔵する棟札は、13枚が現存している。その一番古いのは長禄二年(1458年)のものであるが、和漢将軍祠のものを除いて、慶長十三年の棟札までに十三枚を数えるが、その中にある若宮院は維新以前における護保寺を指しており、護保寺は別名「金鷹山若宮司」とも号した。いつから護保寺と称したかは不明であるが、金鷹山西南麓の護保寺墓地にある宝永五年(1708年)と刻まれた伝燈大阿闍梨頂栄法印の墓石には、「護保寺十四世」と記されている。また若宮社の寛文六(1666年) 年四月の棟札に、「天台宗末寺金鷹山護保寺若宮院主旦海」と記されている。元禄十二年(1699年)の応鐘(十月) 中旬には、護保寺宥雪法印が若宮八幡社に「御託宣集」を奉納している。各巻の題簽には「八幡本縁」とある。「御託宣集」第十六巻の奥書に拠れば、宥雪は、社僧として貞享二年(1685年)から勤仕すること15年、かねてより、天下泰平、国土豊饒および前領主松平市正英親、現領主松平志摩守重賢 (のち重栄)、その嗣子松平市三郎重休 (初め重形)の武運長久や息災延命、ならびに諸人の安全祈願と、また、八幡大神の神徳顕揚のために託宣集の書写を発願したが、なかなか実現し得なかった。
そこでこの年、宥雪は広く民間を勧化して廻り、書写用の料紙を調達して重賢の家従、諏訪角右衛門寛村に依頼し、宇佐神宮所蔵の「託宣集」を写本してもらい、十月中旬に、この写本を若宮社に奉納して、素願を果したという。諏訪寛村は、能筆家であり筆も早かった。九月二十日に起草し、わずか二十日間あまりで、全十六巻を写了したという。
宥雪法印は御室御所総本山仁和寺門跡より、宝永五年(1708年)に聖号と色衣の免状を下賜されている。また祈願所として国法独礼の格式も有した。天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺から御室御所仁和寺の末寺となり、宗旨を真言宗に復すのはこの前後の年代であろうと推測される。
その後、明治維新の廃仏毀釈で末寺の不生山保昌密寺(寺伝・空也上人開基)があった寺域に、当時住職であった貫静阿闍梨の尽力によって護保寺の名を継承された。[1]保昌寺は、杵築藩士興津左太夫が日本一の武芸者になった際に必勝祈願の願掛けをしていたことでも知られる。
2025年7月に、吉岩観賢が金鷹山主、若宮院主として護保寺第50世住職に就任した。
祈祷
金鷹山護保寺では、杵築藩の祈願所であった由緒もあり、厄除け、安産、子授け、社運隆昌など様々な祈願をしている。個人だけでなく法人にも対応しており、願いに応じた祈願を受けられる。
先述したように病気平癒や厄除け、安産、開運招福といった願いは、往古より多くの方々から祈願されてきた。特に厄除けの不動明王、安産子授けの十一面観音、開運招福の毘沙門天と聖天は格別のご利益があるという。
また、花山天皇御願によって再興された寺院であるので、護保寺では日々今上陛下御願円満、天下泰安風雨順時、五穀豊饒諸人快楽、四海安全国土安穏、寺門繫栄興隆仏法、護持大衆成無上道、天下法界平等利益の世界の恒久平和の祈りをささげている。
境内

- 本堂:平成8年(1996年)に改修、新たに落慶。落慶法会の導師に高野山金剛峯寺第408世座主竹内崇峯猊下、事相の大家東野学明猊下を招き、式衆には和多秀乗高野山大学元学長や池口恵観師、草津栄晋元大覚寺派総務部長をはじめとする全国各地有縁の真言行者約60名にて盛大に厳修された。護保寺本堂は正面に大壇、両脇に増益、息災の護摩壇を構える九州ではまれな三壇構えの威風堂々たるお堂である。本尊は阿弥陀三尊。脇に弥勒菩薩、弘法大師。東側の須弥壇には松本明慶工房作の不動明王を祀る。西の須弥壇には大威徳明王、毘沙門天、愛染明王、松久宗琳作の十一面観音を安置する。また、本堂には大聖歓喜天(聖天)を祀っている。護保寺の聖天さんは、松平侯尊信の仏様で、殊に福運厄除に霊験あらたかであるという[2][リンク切れ]。
- 鐘楼:この地にあった保昌寺の梵鐘は名鐘であったが、戦時下供出の憂き目にあう。現在のものは戦後に鋳造されたもの。つけば忽ちに厄が祓えるという、縁起の良い厄除けの鐘。
- 山門:当山第45世観道の代に落慶。昭和15年改修。
- 鎮守社:当地の鎮守は寶玉稲荷大明神である。鎮守社には、稲荷明神が祀られている。しかし、当寺が若宮八幡社の別当寺院だったこともあり、若宮八幡社の八幡大菩薩も鎮守神としている。
- 参道:表参道は第46世観静の代に整備しなおした。表参道には、江戸時代のものとみられる仁王像が護保寺を守護している。裏参道は、自動車道となっており自動車での参拝が可能だ。昭和の頃に、護保寺の檀信徒の寺川氏の土地の寄進によって新たに自動車道が参詣者用に整備された。

- 四国八十八か所お砂踏み:護保寺境内には、四国八十八か所霊場のお砂踏みがある。四国八十八か所霊場の各本尊様をお祀りし、それぞれのお寺の土を埋めている。お砂踏みとは、お砂を踏み仏に礼拝しながら一周回ることで四国八十八か所のお遍路を満行したのと同じ功徳にあずかれるというありがたいもの。
ゆかりの人物
- 敦実親王:平安時代中期の皇族。宇多天皇の八男。宇多源氏の祖一品・式部卿。
- 花山天皇:日本の第65代天皇。第63代冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。第67代三条天皇の異母兄。先帝・第64代円融天皇の甥にあたる。
- 木付親重:鎌倉時代の武将。木付氏初代当主。豊後国竹ノ尾城主。大友親秀の六男。建長元年(1249年)に将軍・藤原頼嗣に謁見し従五位に叙せられる。
- 空也上人:平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも称される。
- 能見松平家:松平氏の庶流である武家・華族だった家。松平信光の八男・光親を祖とするとされ、重勝の系統が江戸時代に大名(廃藩時豊後国杵築藩)となり、維新後に華族の子爵家に列する。
- 喜多川諦道:ジャニー喜多川の父、大分県杵築市出身の日本の高野山真言宗の僧。高野山米国別院第3代主監・布教師。護保寺第四十四世畑観阿僧正の弟子。第四十五世吉岩観道の弟弟子にあたる。
- 河野太通:日本の臨済宗の僧侶、師家、臨済宗妙心寺派の元管長(2010年-2014年)、全日本仏教会前会長(2010年 - 2012年)。学生時代、当山に下宿していた。
- 佐藤文生:日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。元衆議院議員。第46代郵政大臣。母方興津家(杵築藩の家老の家系)の菩提寺という縁から学生時代、当山に下宿していた。
塩川正十郎:日本の政治家。位階は正三位。自由民主党から立候補し衆議院議員(11期)。 この間財務大臣(第2代)、自治大臣(第42代)、国家公安委員会委員長(第52代)、内閣官房長官(第50代)、文部大臣(第108代)、運輸大臣(第52代)、自由民主党総務会長などを歴任。財団法人国民政治協会(自民党の政治資金団体)会長、財団法人自由国民会議(同党の党友組織)所属。その他、東洋大学総長、財団法人関西棋院理事長、特定非営利活動法人武士道協会理事長、『ベストヒット歌謡祭』(旧『全日本有線放送大賞』)実行委員会名誉会長なども務めた。愛称は「塩爺」(しおじい)。