部垂城

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城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 河崎(平)頼幹?
築城年 応永10年(1403年)?
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部垂城
茨城県
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 河崎(平)頼幹?
築城年 応永10年(1403年)?
主な城主 大掾氏(河崎氏)?→人見氏小貫氏宇留野義元
廃城年 天文9年(1540年)?
遺構 (曲輪)4箇所、土塁空堀
指定文化財 史跡等未指定[1]
登録文化財 史跡等未登録[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
市No.040[2]
位置 北緯36度33分06.5秒 東経140度24分55.3秒 / 北緯36.551806度 東経140.415361度 / 36.551806; 140.415361[3]
地図
部垂城の位置(茨城県内)
部垂城
部垂城
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部垂城(へたれじょう)は茨城県常陸大宮市北町・下町に所在する城郭遺跡城跡)。中世常陸国佐竹氏に仕えた小貫氏らの城館跡であり、1528年享禄元年)ないし1529年享禄2年)[注釈 1]に勃発した「部垂の乱(部垂十二年の乱)」にて宇留野義元らが討たれた地とされる。

久慈川右岸の沖積平野に面して東西方向に伸びる河岸段丘の縁辺部に並ぶ4つのによって構成される平山城城郭遺跡である[5][6]

主郭とされる郭Ⅰ(古城)の東隣に郭Ⅱ(搦)、西隣には郭Ⅲが位置する。郭Ⅲは現在、西方寺という浄土宗寺院となっている[7]。郭Ⅱ(搦)の東隣には郭Ⅳが所在し、現在は松吟寺という臨済宗寺院が建つ[8]。なお主郭の郭Ⅰ(古城)は常陸大宮市立大宮小学校となっている[6]

それぞれの郭の境界は横堀で区画され、これらの横堀は北側の段丘崖で竪堀へと接続していたと推定されている。ただし横堀の多くは宅地化などに伴い、地表面では所在が確認出来なくなっている。なお北側の段丘崖には、竪堀のほか土塁を持つ帯曲輪が構築されている[6]

城の変遷と部垂の乱

部垂城は、常陸平氏の嫡流・大掾氏の祖といわれる大掾資幹(馬場資幹)の後裔である河崎頼幹(平頼幹)により、応永10年(1403年)に創築されたと伝えられる[5]。その後は佐竹氏に仕える人見氏が居城としたが、長禄年間(1457年から1460年)に、佐竹氏宿老小貫氏(小貫頼定)が入ったとされる。

小貫氏は3代続いたが、佐竹義篤の弟にして宇留野氏の養子となっていた宇留野義元が、享禄元年(1528年)5月ごろから部垂城への攻撃を開始し、翌・享禄2年(1529年)10月には小貫氏内部に内応者を作って城内に侵攻、城主の小貫俊通を討って城を強奪し部垂義元を称した[5]

義元のこれらの行動の背景には、宇留野氏の拠点・宇留野城の北方に近接する小貫氏領との境界争いのほか、義元自身の佐竹本家の家督継承権の主張、さらにこれに久慈川西岸部の諸氏(小場氏・長倉氏ら)による佐竹氏本家への反感が義元擁立の動きに加わった、とする推論があるが[9]、これにより兄・義篤との間で「部垂の乱(部垂十二年の乱)」と呼ばれる内乱が勃発した。

なお、内乱の開始年代については、佐竹氏の家譜年代記等の史料に基づき享禄2年(1529年)10月とされることが一般的であったが、1990年代以降の研究では、享禄元年(1528年)5月頃から義元による部垂城への攻撃が始まっていたと考えられるようになり、従来説より1年以上前を開始時期とする見解がある[4]

数度の戦闘を経て、義篤との間で和議が成立し現状維持となったが、内乱勃発から12年目の天文9年(1540年)、義元が部垂城大手にかかる橋の架替え普請工事)を家臣に命じた際、その完了状況が良くないとして、普請を担当した家臣の大賀外記を衆目の前で罵倒した。これを不満とした大賀は出奔して義篤の元に走り、城の普請は佐竹本家への謀反の準備であると讒言した。これにより義篤は和議を反故にして同年3月14日(1540年4月30日)に部垂城を奇襲、不意を突かれた義元は討死し内乱は終結した[5]

日本城郭大系』では、部垂城は部垂の乱の終結に際して廃城になったと推定しているが[5]、『茨城県の中世城館-茨城県中世城館跡総合調査報告書-』では乱後も佐竹宗家の管理下に置かれたと推定している[6]

脚注

参考文献

外部リンク

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