杜審権
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大和5年(831年)、進士に及第し、弘文館校書郎に任じられた。崔郾の下で鄂岳安黄等州観察推官をつとめ、浙江西道観察推官となった。さらに書判抜萃科に登第し、藍田県尉に任じられた。河中節度使の鄭粛の推挙により、監察御史となり、記室の事務を管掌した。右拾遺に任じられ、左補闕に転じた。起居舎人となり、『注記』10巻を編纂した。大中年間、司勲員外郎・考功員外郎・吏部員外郎を歴任し、修撰を兼ねた。兵部郎中となり、侍御史・知御史台雑事を兼ねた[3]。本官のまま知制誥となり、中書舎人に任じられた。大中10年(856年)、知礼部貢挙をつとめた。大中11年(857年)、正式に礼部侍郎に任じられた[1][2]。9月、陝州大都督府長史・陝虢都防禦観察使として出向した[4]。大中13年(859年)、検校礼部尚書・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使に転じた。
懿宗が即位すると、審権は長安に召還されて、兵部侍郎・判度支に任じられた[1]。12月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[5]。咸通元年(860年)、中書侍郎となり、工部尚書を兼ねた[6]。咸通3年(862年)、門下侍郎となり、吏部尚書を兼ねた[7]。咸通4年(863年)、宰相を退任して[8]、検校吏部尚書となり、潤州刺史・鎮海軍節度使をつとめた[9]。
咸通9年(868年)、龐勛が桂州から徐州に帰り、反乱を起こすと、審権は淮南節度使の令狐綯や荊南節度使の崔鉉と協力して、龐勛の乱を討った。咸通10年(869年)、反乱が鎮圧されると、審権は長安に召還されて、尚書左僕射に任じられ、襄陽郡公に封じられた。咸通11年(870年)、検校司徒・同平章事となり、河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使をつとめた[10][2]。
乾符2年(875年)、審権は本官のまま許州刺史・忠武軍節度・陳許観察等使となった。7月18日、死去した。享年は72。太尉の位を追贈された[3]。諡は徳といった[2]。著書に『綸閣集』20巻・『金門集』22巻・『雑文賦集』30巻があった[3]。