野村茂久馬
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来歴
生い立ち
明治2年12月28日(1870年1月30日)、野村健吉の長男として、土佐国安芸郡奈半利村(現在の高知県安芸郡奈半利町)に生まれる[6]。母は北川氏(貞子[5])
13歳の時、銀行勤務の父に伴われて、高知市内に移る。西南戦争の翌年にあたる、明治11年(1878年)、高知県尋常中学校(現校名・高知県立高知追手前高等学校)に入学[1]。(ライオン宰相、濱口雄幸(高知市出身)とは同級生) 明治23年(1890年)上京して、東京専門学校(現・早稲田大学)に入り、政治、経済を学ぶが[1]、明治24年(1891年)学業を断念して実家に戻る[6]。この頃、結婚をしたが、野放図な性格から浪費がかさみ、父と衝突して家を出、明治30年(1897年)、高知市内に居を移した[6]。
実業家として
明治30年(1897年)、内国通運高知取引所(現・日本通運高知支店)を預かり、明治37年(1904年)、日露戦争の戦地輸送を手掛ける[6]。
大正8年(1919年)8月15日、株式会社野村組自動車部を資本金1万円で設立し、さらに、大正9年(1920年)土佐沿岸汽船株式会社を設立。
大正10年(1921年)、高知工作所を買収し、海陸運輸関連事業を拡大させる[6]。
昭和2年(1927年)1月、早稲田大学に在学中であった発起人・入交好保の趣旨に賛同し、推されて「坂本龍馬先生銅像建設会」の会長職に就任[7]。4月、寄附行為の許可を受け、銅像建設事業に取り組む[5]。
昭和3年(1928年)、株式会社野村組自動車部を、野村自動車株式会社と商号変更した。
貴族院議員として
昭和7年(1932年)高知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任[8]。昭和8年(1933年)、高知商工会議所会頭となり、昭和14年(1939年)、貴族院議員に再選[9]。政友会支部長の任につく[6]。研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
株式会社野村組と野村自動車株式会社を合併して、野村産業株式会社(この会社は昭和60年(1985年)に福山通運に傘下入りし高知福山通運に商号変更)とし、事業の拡大をはかった。
文化人として
(野村茂久馬の再建による)
郷土愛が深く、人望もあり、政財界に通じ桂浜の「坂本龍馬先生銅像」、室戸の「中岡慎太郎先生像」の建立を支援し、1937年(昭和12年)、高知・板垣会館の建設にも尽力する。同4月6日の「板垣会館」落成式に際し、来高した国士・頭山満を自邸に招いて摂待し、乗用車を提供して便宜に尽す[10]。昭和16年(1941年)、財団法人板垣会編纂書籍『憲政と土佐』に対し私財を拠出して支援。11月3日、同上を出版させた[11]。
実業家として辣腕を振い、また各種文化事業にも取り組む。昭和19年(1944年)、野村産業株式会社のバス部門が独立し、高知県交通株式会社となるが、大東亜戦争の戦局悪化に伴い、昭和20年(1945年)7月4日、高知市内も敵機の空襲によって焼失するなど、苦難を経験する。昭和21年(1946年)1月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示により公職追放され、引退して奈半利町に籠居した。
昭和26年(1951年)8月、公職追放解除の後、高知市天神町に居を移す。この時、参議院議員・寺尾豊を会長とする「野村茂久馬翁寿像建設会」が組織され、大詔奉戴日にあたる同年12月8日除幕式を迎えた[5]。更にこの頃、推されて財団法人板垣会の会長となり、戦時に金属供出して空の台座のみとなっていた高知城公園の「板垣退助先生銅像」の再建事業に取り組んだ[4]。現在、高知城公園に板垣退助の銅像が存在するのは、この再建活動の賜物である[4]。
家族・親戚
出典は、久曜会野村翁編纂委員会編著『野村茂久馬翁』。
- 土佐酸素元社長[15]。
松寿との間には他に三男の武雄、四男の好直(七男とは別人)がいたがいずれも幼死している[12]。
- 後妻・昭恵(1884年(明治17年)2月生)
- 高知県、川口虎衛の妹[14]。
- 六男・好久(1911年(明治44年)4月18日生)
- 長女・愛子(1914年(大正3年)1月生)
- 七男・好直(1916年(大正5年)3月生)
- 八男・好信(1920年(大正9年)1月生)
- 次女・孝子(1923年(大正12年)2月生)
- 三女・好子(1925年(大正14年)12月生)
