金尚憲
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父は敦寧府都正・金克孝で、右議政・金尚容の弟。3歳のときに叔父の県監・金大孝の養子となった。 仁祖反正(1623年)ののち吏曹参議となり、西人清西派の領袖となる。1635年に大司憲として再起用され、後金に備え軍備を整え、軍事施設の拡充を唱え、翌年に礼曹判書となった。1636年12月、清が大軍をもって侵入すると(丙子胡乱)、清を蛮夷だとして、主君である中華の天子の忠実な諸侯として、また中華帝国のもっとも忠実な模範属国として、明に誠心誠意仕えることを主張[1]、最後まで戦おうとし洪翼漢等と斥和論を唱えて、現実に則した主和論を唱えた崔鳴吉と対立しこれを最後まで排斥したが、1637年1月30日、仁祖が漢江南岸の三田洞にある清軍本営に出向き、ホンタイジが天子であることを三跪九叩頭の礼によって認めるという屈辱的な城下の盟を余儀なくされると、安東に隠居した。なお、朝鮮が清に降伏するとその降伏文書を泣きわめいて裂いて大泣きしたと伝えられる[2]。
その後、1639年に清の人質になった。詩文および「朝天録」「清平録」「南漢紀略」などからなる『清陰全集』全40巻の著書がある。諡号は文正。